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  塩尻
しおじり
 中山道の宿場町・三州街道「塩の道」の終点
 長野県塩尻市塩尻町

構成:平入り商家・本棟造り民家・酒蔵 駐車場:なし
 
国の重要文化財・堀内家住宅
戦国期における美談の一つから言葉になった「敵に塩を送る」。敵対する甲斐の武田信玄に塩を送った越後の上杉謙信。史実はいろいろ議論されるところですが、舞台となった甲斐国(現在の山梨)同様に海を持たない信濃国(長野県)にとっても塩は重要な生命線でした。

塩を生産する沿岸国から内陸部の信濃国へ塩を運ぶルートは「塩の道」と呼ばれますが、大きく2つありました。一つは日本海は越後の糸魚川から当時の中心地である松本へ至る千国街道(糸魚川街道とも)、もう一つは太平洋の三河から松本へ至る三州街道です。いずれの街道が松本城下へ入る前に結ばれる地が現在の塩尻。
塩尻とは「塩の道の終点」の意味なのです。

そんな、内陸地域も江戸時代の太平の世にあっては、塩の供給が必ずしも死活問題とはならず、塩尻の位置づけも大きく変わっていきます。
関ヶ原の戦い後、徳川家康によって江戸を中心とした主要五街道が整備されます。それらの陣頭指揮を取った大久保長安が整備した初期中山道は下諏訪宿から三州街道小野宿を経由して牛首峠を越えて木曽路へと至りましたが、長安が没すると中山道は新たに下諏訪から塩尻峠を越えて塩尻、洗場を経て木曽路に至る道筋に変更され、塩尻は新たに中山道の宿場町として発展していきます。
塩尻宿は東から上町・中町(室町)・下町(宮本町)に区分され、宿の中心には問屋・本陣・脇本陣が並び、最盛期には旅籠が70軒以上に及ぶ規模となります。このころには塩尻は幕府直轄領(天領)となり塩尻陣屋も置かれ、さらに松本藩6万石の玄関口としても栄えました。

塩尻宿は明治15年の大火で壊滅し、宿場町時代の町並みは残っていません。しかし、その中でもかろうじて旅籠を営んでいた小野家が街道沿いに残り、さらに当時庄屋であった堀内家の本棟造りの邸宅が、街道から少し奥行った場所に残されています。いずれも国の重要文化財です。当時大旅籠であった小野家は屋号を「銀杏屋」(いてらや)といいました。

その小野家の斜向かいに幕府の塩尻陣屋があり、その跡地には明治16年に創業した地酒「笑亀」を醸す笑亀酒造があります。
 
こちらも国の重要文化財・小野家住宅
 
塩尻陣屋跡に発つ笑亀酒造
 
塩尻の酒蔵          
清酒 「笑亀」 笑亀酒造 塩尻市塩尻町140 0263-52-0302    
清酒 「美寿々」 美寿々酒造 塩尻市洗馬2402 0263-52-0013    
清酒 「高波」 丸永酒造場 塩尻市広丘高出840 0263-52-2633