江戸時代、間部氏の陣屋町として発展した鯖江は現在全国生産量の実に90%以上を占める、眼鏡フレームの生産地として知られています。
2代福井藩主松平忠直の代に北国街道の近代化が進められ、鯖江の街道筋にも集落が集められます。当時の鯖江には真宗誠照寺派本山の門前町が形成されていましたが、まだ小さな寒村でしかありませんでした。そんな鯖江の地に入封してきたのが間部詮房でした。
間部詮房は新井白石と共に後の6代将軍の徳川家宣に仕え、幕府の中枢に携わりますが、8代将軍吉宗のときに失脚し、上野高崎から越後村上へ左遷され、さらにこの鯖江に追いやられます。入封当時の鯖江は小さな漁村で、さらに耕地に乏しい土地柄であり、幕府における政争の激しさを伺い知ることができます。
5万石の鯖江藩でしたが、領地は広範囲に点在してまとまっておらず、さらに領内は若狭小浜藩領や越前福井藩領が入り組み、陣屋町や家臣屋敷の建設もままならない状態で、暫定的に近郷の農家に家臣を分宿させるありさまでした。
本格的な陣屋町建設は後に小浜藩との領地交換によってようやく着工するに至りましたが、藩財政は当初から困窮を極めます。とくに7代藩主間部詮勝が幕府の老中に返り咲くと、それに伴う出費も増大。将軍家慶から築城を許されるも、結局着工するまでには至らず明治を迎えてしまいました。
さらに詮勝は安政の大獄の陣頭指揮を務めますが、井伊直弼と対立。後の桜田門外の変の後に全ての責任をとらされ、1万石を没収されて4万石となってしまいました。
明治に入り鯖江藩が無くなると鯖江の町は急速に衰退します。転機は陸軍鯖江歩兵第36連帯がこの地に駐屯した事により軍都として再興したのです。当時兵舎が置かれていた場所は三六町という町名で今にその名残を残しています。
絹人絹織物王国と言われるほどに成長した鯖江はの繊維産業はこの明治期に始まると共に、眼鏡フレームの生産も明治末期にはすでに始まっていたのです。
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