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  良川
よしかわ
 七尾街道西往来と田鶴浜街道が合流する要衝の町
  石川県鹿島郡鳥屋町良川【石川県中能登町良川】2005年合併

 構成:商家・伝統様式民家土蔵 ■ 駐車場:なし
 
 

能登半島は東海岸中央部に位置する能登最大に町七尾市から、西海岸の羽咋市にかけて半島を南北に両断する邑智地溝帯。能登半島はその平野部を境に北部の奥能登丘陵と南部の宝達丘陵という2つの山地からなる3つの地域に分けれます。地溝帯西端部の邑知潟へ流れ込む長曽川に沿ってJR七尾線と国道が金沢と七尾を結んでおり、このわずかな平野部が能登最大の穀倉地帯であると共に、古くからの大動脈でした。

金沢と奥能登を結ぶ街道は「能登街道」と総称され、西海岸・日本海沿岸を通る「外浦街道」と東海岸・富山湾側を通る「内浦街道」の2つからなります。そのうち内浦街道において、能登半島の中心都市である七尾と金沢までの区間は「七尾街道」とも呼ばれています。この七尾街道は現在の国道159号がほぼ踏襲しており、藩政期には高畠と二宮の2箇所に宿場町が設けられていました。

加賀100万石の礎を築いた前田利家は、織田信長から授かった七尾(当時は所口)に城を築いて本拠地としました。その後金沢へ移るのですが、後に残された七尾城下町はその後も加賀藩によって保護され能登最大の町へと発展します。
七尾の保護政策の一つに「内浦街道の往来は、必ず七尾を通らなくてはならない」という決まりがありました。しかし現実には、奥能登から金沢を目指す場合、田鶴浜から良川へ抜け、長曽川の西側を脇街道を通って羽咋に至る道の方が最短でした。
この脇街道は「西往来」と呼ばれ、本来の七尾街道は「東往来」と呼ばれるようになります。

もちろん、加賀藩は七尾街道(東往来)の宿場の維持と既得権益を守る為に、西往来の通行を禁じて取り締まりましたが、それでも西往来を通る者は後を絶ちませんでした。ところが幕末になり、外国船が頻繁に出没すると、海防に追われた藩の役人は、実際に最短ルートである西往来を利用する事が多く、その後西往来は公認されます。

それ以前の西往来は加賀藩非公認の街道ですが、唯一良川には馬次場が設けられていました。もちろん宿立ては許されず、その利用も地元流通に限定されていました。
現在この邑智地溝帯において、東往来の高畠宿以外に酒蔵が、それも2軒もあるのはこの良川のある鳥屋町だけでです。その事からも良川がいかに交通量の多い場所であった事が想像できます。

七尾街道西往来は現在、主要地方道七尾羽咋線がほぼ踏襲し、旧道はその少し山側の集落を通り抜けている生活道路がそれです。良川を初めとして邑智地溝帯の集落の多くは、旧街道沿いに街村の形で形成され、往時を偲ばせる家並みも見事なまでに残されていました。西往来の家並みは羽咋へ向かって西馬場能登部下鹿島路町へと続き、いずれも宿場町では無いものの、往時を偲ばせる街村の姿を残しています。


 
 
 
 
 
鳥屋町の酒蔵          
清酒 「二羽鶴」 二羽鶴酒造場 石川県鹿島郡鳥屋町羽坂四部22 0767-74-0010
清酒 「池月」 鳥屋酒造 石川県鹿島郡鳥屋町一青ヶ部96 0767-74-1139