戦国時代、この地を支配した荒木氏の居城の前端に造られた城下町にその名が由来する城端は、江戸期には浄土真宗大谷派の城端別院善徳寺の門前町として発展すると供に、砺波地方の物資が集散する市場町としても栄えました。
城端は五箇山との取引により五箇山貸商人を生み出します。五箇山地方は険しい山に遮られ、交通が困難な上に積雪季は半年近く雪に閉ざされ陸の孤島となります。
その為五箇山の住人は冬を前に生活物資を買い貯めしなくてはなりませんでした。しかし貧しい山間の村民に現金があるわけはなく、そこで冬明けに生産される生産物の独占的取引を担保に生活物資の前借りを行う、いうなれば先物取引によって城端の商人は富みを得ました。当然取引レートは城端の商人に都合の良いもので、五箇山の住民の生活はつねに厳しい状況に置かれていました。
加賀藩では原則、貸金業を禁じていましたが、五箇山の特殊事情を考慮し特別に公認していました。
越中八尾と同じく城端もまた河岸段丘上に形成された町であり、起伏に富んだ地形の所々に往時を偲ばせる街並みが残っています。中でも東上町にある旧五箇山街道の街並みと新町にある、城端商人の土蔵4つを復元して回廊で結んだ博物館「蔵街道」が町並みの核となります。これらは街並み整備事業で復元されたものですが、歴史を感じされる趣がありました。
町のメインストリートは道路の拡幅と再開発が行われていますが、伝統的な街並みを意識した景観造り行われていました。
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