人口5万2000人を抱え、和歌山市のベッドタウンとして発展し続ける岩出町は2006年に市へと昇格を果たします。この岩出市のある那賀地域は古くから那賀郡平野と呼ばれる和歌山県下有数の穀倉地帯でした。
江戸時代、和歌山城下より4里の距離にある岩出は大和街道の宿場町に指定され、紀州藩主の別館も置かれていました。
和歌山城下を出た大和街道は現在の主要地方道14号・和歌山打田線と重なって紀ノ川の左岸を通り、船戸から岩出まで舟渡で川を渡り、以後は紀ノ川右岸を通ります。この船戸・岩出間には和歌山城下防衛の為に架橋はされませんでした。対岸の船戸の地名はこの「岩出渡」に由来します。
伝馬所が置かれた岩出清水には藩主の別館が置かれた事から御殿山とも称されていました
が
、この別館は宝暦年間に取り壊されており、現在はその遺構すら残されていません。
旧大和街道は現在の主要地方道14号・和歌山打田線にほぼ踏襲すると思われますが、JR和歌山線との合流から線路に沿って南下して紀ノ川を渡ったようです。
一方岩出清水には大和街道と交わる根来街道がありました。この根来街道は岩出清水から西へ進路を取り、加太へと至る事から別名「淡島街道」とも呼ばれていました。根来街道は大坂方面から風吹峠を経て紀州、さらには高野山へと至る道でもあった為に、岩出郡は大阪と深い繋がりがありました。さらに昭和41年に風吹トンネルが開通すると、大阪方面との結びつきを一層強くし、関西国際空港の開港によって岩出市は大坂の衛星都市的な性格を帯びていきました。
かつて大和街道で正式な宿場町として認められていたのは、この岩出清水と名手市場、橋本の3箇所だけでありこれらの町には本陣も置かれていましたが、かつて街道の要衝でもあった現在の岩出清水には往時を偲ばせるような町並みはほとんど残されていません。旧大和街道と根来街道を繋いだ細い道筋、現在の県道134号・小豆島岩出線沿いに、古い伝統的様式の民家が散見される程度です。建物の多くは明治期以降の二階建て建築で、袖壁や袖卯建を施したものなど、さまざまな様式が見られ統一感には欠けます。
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