奈良県と県境を接する和歌山県最東端に位置する橋本市は古くから大和と紀伊国境の要衝として発展する基礎がありました。紀伊半島東部を源に半島を縦断する形で西流する吉野川もこの橋本から「紀ノ川」に名前を変えます。
5世紀後半から大陸文化がこの橋本(東家)を通って奈良へともたらされ、7世紀には南海道に沿った紀伊国への玄関口であり、9世紀ごろからは高野山の表玄関として発展し、10世紀には高野山の荘園となり相賀荘と呼ばれました。
やがて戦国時代になると本能寺で散った織田信長の意志を継いだ豊臣秀吉の紀州攻めが激しさを増す中で、いよいよ高野山攻略と目前に秀吉を和議の席へと向かわせ、高野山中興の僧となった木喰応其(もくじきおうご)によって町が建設されました。さらに高野山参詣の便の為、紀ノ川に約130間(約324m)もの長さの橋を架けます。その北詰の町が「橋本」と呼ばれたのに始まります。ちなみに南詰めの町は清水町で、共に高野街道の伝馬所として発展しました。ちなみに橋は3年後に大水で流失、以後は船渡し「無銭横渡」が行われるようになります。こうして橋本町は高野山往還宿だけでなく水陸交通の要衝、紀伊・大和・河内の物資集散地として繁栄し、この地方の政治・経済の中心地へと発展していきました。
橋本町の建設にあたって豊臣秀吉は、経済的な基盤整備のために塩市の独占的特権を与え、大和や紀ノ川流域の村々へ搬出される塩は必ず橋本の塩市で取引するように義務づけられました。この塩市は「一六塩市」と呼ばれ、はじめ月6回開かれていましたが、江戸期には月12回に拡大されます。この特権は江戸期に入っても紀州藩に引き継がれて続きました。
橋本町は高野街道と大和街道(伊勢街道とも)の交わる要衝として伝馬所が置かれ、さらに国境に接する町として紀州藩の番所も置かれます。伊勢街道は伊勢神宮への参宮だけでなく紀州藩主の参勤交代路、また藩領伊勢松阪への連絡路としても重要な道で、岩出清水、名手市場に続いてこの橋本にも本陣が置かれました。この本陣を勤めた池永家は現在も国道24号線沿いに現存します。
大坂方面からの高野参詣道の要衝であった橋本町の繁栄は明治になっても続きましたが、やがて南海電鉄が高野山への直通列車を開通させると、参詣客は列車に乗って橋本町を素通りしていく事となり、高野山の表玄関の地位を失っていきます。しかし鉄道は橋本と大坂を身近なものとし、町は次第に大坂の衛星都市とその性格を変えていきます。
現在、橋本駅はJRと南海電鉄が乗り入れる準ターミナル駅で、一見すると紀伊半島中央部の一大都市を想像しますが、実際のところ衰退の激しい地方都市で駅前も閑散とし、商店はシャッター商店街をとうの昔に迎え、半分は廃墟と化していました。一時期、地元の有志が
「まちかど博物館」を目指して活動を行っていたそうですが、それすらも閉鎖されていました。この栄枯盛衰の激しさを残酷なまでに見せつける商店街が旧大和街道であり、この古佐田・橋本地区を中心に、伝統的な古い商家の家並みが残されています。ここから駅にかけての迷路のような商業・住居地区さらに交通量の多い、国道24号線沿いにも見ることができます。
商店街を抜けた旧大和街道は橋本川を渡り、西の東家地区へと至ります。東家地区は橋本市の官公庁地区であり、また閑静な住宅地区でもあります。そして古い家並みはこの東家地区へと続いていました。 |