米子市から南へ約10km。法勝寺川と東長田川が合流する付近に発達した西伯町の中心部、法勝寺は古くから交通の要衝で、米子と山陽を結ぶ法勝寺街道の宿場町として、江戸期から明治、大正期にかけて繁栄した町でした。地名である法勝寺という名が文献に出てくるのは室町時代ですが、その時期にすでに法勝寺という寺院はなく、また実際に存在したかどうかも不明です。
法勝寺街道は陰陽連絡の参勤交代路として幹線である出雲街道や智頭往来に対して、奥日野と米子を結ぶたたら鉄の運搬道、また米子から奥日野を経由して備後方面へと結ぶ脇街道・備後街道でした。さらに出雲母里藩と上方を結ぶ往還も東西に交差していました。
慶安4年(1651年)鳥取藩内9駅の一つとして駅馬20頭がおかれたのが宿場の始まりですが、法勝寺にはこの地域の主要産業であったたたら製鉄の問屋があり、周辺地域から産出された鉄、近世以降は雲集木綿なども集荷して米子へと送り出す流通の中継地、在郷町としても栄えていました。
宿場町としては御茶屋(本陣)や制札場が置かれると共に、奥会見郡役所や番所も設置される行政上の要地でありました。
法勝寺街道は現在の国道180号線にあたり、これに天万方面や二部方面への街道がいくつも交差している要衝であることがわかります。
法勝寺川沿い土手、戦国期に毛利氏によって築かれた法勝寺城跡の城山公園は桜の名所として知られ、春には多くの花見客が訪れますが、土手近くを通る旧道沿いがかつての法勝寺宿。大変わずかですが宿場町を偲ばせる家並みが残されています。
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