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肱川
ひじかわ
 古くから交通の要衝として栄えた肱川上流渓谷の小さな町
 愛媛県大洲市肱川町山鳥坂(やまとさか) 【旧・喜多郡肱川町】2005年合併
伝統様式古民家・酒蔵・土蔵  なし  JR予讃線・大洲駅からバス2時間
 
 
肱川町はその名の通り、大洲市から肱川を遡った中流域にある人口3,000人ほどの小さな町で、2005年1月に大洲市、長浜町、河辺村と合併しました。
喜多郡南端の山間部に位置し、肱川とその支流沿いのわずかな段丘上の平地部に集落が寄り添うように集まる典型的なV字峡谷型の山村です。町の中心は鹿野川ダム下流に川辺川が合流する場所にあり、この見るからに天然の要害をなしている地は古くから伊予各地と土佐を結ぶ交通の要衝でもあり、軍事的拠点でもありました。

江戸時代のこの地域は宇和島藩、大洲藩、新谷藩など3藩の支配が入り組んだ接点で、現在の地図で国道や県道が東西南北に抜けている事からも分かるように、交易や物流の要衝として発展していました。大洲城下への唯一の運搬手段は肱川を行き来する川舟で坂石、硯、石丸、栗太郎などの河港集落が発達していました。また土佐方面へ通じる、硯には宇和島藩の番所が置かれ、荷物改めが行われていたといいます。(現在はダムの湖底か)

肱川舟運は昭和10年頃まで続いていました。8m余りの全長をもつ川舟は地元の船大工によって造船され、下り舟は700-800貫の荷を積み大洲まで1日、長浜まで2日の行程かけて運搬しました。その帰りの上り舟は半分の荷を積み、長浜から4日かけて戻りました。途中の急瀬は帆をかけ、牛に引かせて川を登ったのです。そして昭和初期にはまだ約280人余りの筏氏がいたといいます。
道路の整備は大正初期から始まり、大正9年に県道に指定。昭和45年に国道197号線に昇格してから交通体系が一変します。河舟より速い荷馬車へ、そして自動車による陸運にシフトしていきます。これは村内の産業・経済を一変させ、河港集落は道路沿いへと移転していくのです。

旧肱川町内の平地部は全体のわずか1%。その中でも最も広い山鳥坂地区に町の中心があります。谷筋交通の要衝として栄えてきた鹿野川在郷町の古い町並みが残る鹿野川商店街にはバスターミナルがあり、今でも大洲方面の他、内子さらに町内各地域へのハブとして依然交通の要衝に変わりはありません。
 
 
 
 
 
肱川の酒蔵          
清酒 「金養老」 養老酒造 愛媛県大洲市肱川町大字山鳥坂49 0893-34-2352