四国屈指の古い町並みを残す製蝋の町・内子町の南に接する五十崎町。内子町同様に周囲を山に囲まれた人口6,000人弱の山間の町で、古くから手漉き和紙の里として知られていました。町の中心は肱川支流の小田川流域平野にあり、小田川を挟んだ古田と平岡に市街地が形成されています。山間地域ゆえに、かつてはこの小田川水運が物流の要でしたが、明治以降に道路や鉄道が整備された事により、その河港と舟運は姿を消します。
五十崎の地名の由来は定かではありませんが、中世・室町期ごろには伊賀崎と書かれ、明治になって五十崎の名が生まれます。
大洲和紙の主産地として知られる手漉き和紙製造は、その名が示すとおり江戸期の大洲藩支配の時に藩の統制のもとで産業化されたものです。藩は和紙の技術者を招きますが、もともと和紙製造の基礎がありました。その伝統は古代の「正倉院文章」にも記述されていて、古くからの和紙の山地として知られる越前(福井県)からもたらされた技術だと言われています。大洲藩主2代加藤泰興によって寛永年間に本格的に始められ専売制が敷かれます。五十崎には藩の役所が置かれ紙の原材料から厳しく管理されていました。しかし、明治の廃藩置県で大洲藩が消滅し、藩による和紙統制が無くなると、今度は粗製乱造によって大洲和紙は一時衰退しますが、地元業者の品質改善と努力によってなんとか復活。しかし再び今度は機械製造に押され、隣接する内子の和紙は姿を消し、その波は五十崎をも襲いましたが、伝統文化として国の指定を受け、五十崎の手漉き和紙は今も残されています。
五十崎町は小田川で開催される大凧合戦の町として知られていますが、この大凧の由来は定かでは無いものの、五十崎の和紙の歴史が関係しているようです。
2005年に隣りの内子町とさらに郡を越えた上浮穴郡小田町と合併。愛媛県下有数の知名度と観光資源を有する内子町の名を残すかわりに、行政機関は五十崎町に置くという事で合意しました。JR予讃線(内子線)の五十崎駅は町域の端部にあり、内子駅が最寄りの玄関駅となっています。
平岡地区の町並み・旧道が十字に交差
町外れの丘陵上(平岡地区)に立つ亀岡酒造・この道も旧道筋だと思います
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