丸亀の中心にそびえる高さ日本一の石垣を持つ丸亀城。もとは織田信長に仕え、その後豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒氏によって築かれました。生駒家は江戸期も所領を安堵されましたが、やがて御家騒動によって出羽国へ左遷、その後は旗本まで降格していきます。
その後肥後富岡より山崎家治が5万3000石で入封。丸亀城はこの時再建され、完成を見ますが、山崎氏は子に恵まれず無嗣改易。
代わって播磨竜野より京極高和が6万石で入封。以後212年間、7代に渡り丸亀は京極家の支配のもとで明治を向かえます。後に丸亀藩は多度津家中1万石を分知し多度津藩を成立させます。
丸亀は西讃一の都市として発展、また丸亀港はこんぴら街道の玄関口としてにぎわい城下は発展しました。
幕末になると財政が逼迫し、藩士の内職として現在の丸亀名産のうちわ造りが始まったと言われています。
丸亀城の南側に武家屋敷が置かれ、現在も八番丁・九番丁には武家屋敷地区としてその遺構が残っています。また城の北側、国道を挟んだ風袋町から土器町近辺のビルの裏側には、明治から昭和初期にかけてのものと思われる古い家並みが僅かですが散見されました。探せばもっとあるかも知れません。
(2006.8)
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