大分西南端の城下町・豊後竹田。そこから北西へ伸びる国道442号線は九州連峰を越えて天領の町日田へ通じる道で日田街道と呼ばれていました。久住町は竹田からこの道を10kmほどこ北上した場所にある高原の町。地酒「千羽鶴」を醸す佐藤酒造のある町としても知られています。この町には、もう一つの往還。大分と熊本を結ぶ豊後街道(肥後往還とも)もクロスします。豊後街道は古代律令時代に始まる官道で、
「延喜式」に見られる直入駅がこの地域置かれていました。もっともその場所は久住の中心部から北東へ約5kmほどいった都野地区の古市にあったと言われています。
関ヶ原の戦い後、この地域は加藤清正の熊本藩領となり、以後豊後街道は熊本藩の参勤交代道となり、久住は熊本藩の宿場内町として整備され御茶屋(本陣)などが設けられていました。熊本藩ではこの街道を肥後往還と呼んでいます。
主要地方道竹田小国線と主要地方道庄内久住線が町の中心で合流。
九州連峰の東側高地を縫うように走る肥後往還は、阿蘇外輪山を通る熊本県側も含めて、その大部分は国道に昇格する事なく、旧道の遺構は県道や地方道の端々に複雑な線を辿りながら残されており、その事からもこの町が大きく発展する要素が少なかった事が伺えます。
そんな久住に町にはかつては数軒の酒蔵がありました。しかしそれは江戸時代が終わり、ずっと後の大正時代以降の事。久住山の豊かな伏流水を求め、県下から集まってきた酒蔵でした。
久住町の役場近く、日田往還沿いに構える佐藤酒造は大正6年の創業で、800石を醸す小さな蔵。大正期らしいレトロな雰囲気の擬洋風建築が目印。
文豪川端康成が愛した酒としても知られ、「千羽鶴」の酒銘はこの地で同氏が執筆した名作「千羽鶴」に由来するといいます。
久住には近年までもう1軒の酒蔵がありました。旧豊後街道沿いに建つ小早川酒造がそれで、現在も白壁の商家や酒蔵・屋敷地が街道沿いに佇み、酒蔵資料館にレストラン・宿泊施設である「久住酒蔵物語」として運営されていました。
ちなみに、この蔵で醸されていた銘酒「竹田櫻」は現在大野郡緒方町の丹誠酒類によって引き継がれているそうです。
|