中津は周防灘に面した豊後最北の城下町。大分県の北端に位置する為に、福岡県北九州地域が経済圏となっているようです。大分県下の城下町のなかでも、文化財や史跡の数は多く、北九州有数の観光地として知られ、「福澤諭吉旧居」や寺町にある合元寺の赤塀などは中津城ともに観光ガイドのトップを飾っています。中でも中津の顔とも言える中津城は、知る人は知る個人(民間)所有の城であり、同じように個人所有の城としては愛知県の犬山城が知られていますが(※現在は財団法人に移管)この中津城もまた中津藩藩主であった奥平家の子孫が経営する民間企業が所有する城であり、近年起こった中津城売却騒動により、全国にその存在を知られる事になりました。
城は山国川を背後に、城下町は城を要に扇状に展開していることから「扇城」とも称されていましたが、中津城には本来天守は存在しませんでした。これは昭和39年
(1964)に山口県の萩城を模して、鉄筋コンクリート造で建てられた観光模擬天守だったのです。ちなみに愛知の犬山城は江戸期に建てられた国宝天守です。
城に寺町とくれば当然武家屋敷ですが、こちらはほとんどその姿を残していません。
豊後本線の南側の通称金屋町(住所は中津)付近に土壁のみの遺構を見る事ができます。次ぎに来るのが町人町ですが、もはやここにはスポットが当たる余地はなさそうです。とは言っても武家町に比べれば探せばそれなりに往時を偲ばせる家並みや町割りが残されている場所が沢山あるのですが、この”探せば”のレベルなので、よほどでなければ仕方がないかも知れません。
中津藩について手短に辿ると。天正15年(1587)の豊臣秀吉による九州征伐後、黒田孝高がこの地に封じられます。この黒田氏の時代に中津城の建設が始まりますが、黒田長政は関ヶ原の戦いで東軍に加わり、戦後52万石に加増され筑前福岡に栄転します。中津城は工事途中のまま、替わって丹後田辺より細川忠興が中津に39万9000石で入封し近世中津藩が成立します。この細川氏時代に中津城の本格的工事が始まりますが、これまた藩庁を小倉に移して小倉藩が成立。中津城は支城となり嫡子忠利の城代管理を経て藩主を譲った忠興の隠居城になります。こうして中津城はなんとか完成し、忠興は城下町の建設に着手します。一国一城令が決められた江戸時代において数少ない幕府公認の支城でしたが、細川家2代忠利の時にこれまた肥後熊本へ52万石で栄転。替わって小倉に小笠原忠真が15万石封じられ、同家一門の小笠原長次が播磨龍野より8万石で中津に入封します。この時代に城下町がほぼ完成されますが、この中津小笠原家も5代で廃藩に。度々藩主が入れ替わりますが、丹後宮津から奥平昌成が10万石で入封して、これにて落ち着き以後9代・155年間続いて明治を向かえます。
探せばそれなりに見つけられる町人町ですが、広い範囲に点在するそれらに家並みは意外に状態が良く、またそれらのエリアでは町並みの修景も行われており、旧町名の由来を記した小さな看板の設置、通称地名の復活などから、やがて観光資源として公に扱われていくことを期待します。
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