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  保福寺
ほふくじ
 「江戸道」とも呼ばれた保福寺道の宿場町
 長野県松本市保福寺町 【旧・東筑摩郡会田村保福寺町】2005年合併

構成:本務造り旧本陣・平入り民家・土蔵 駐車場:保福寺前

 
本陣を勤めた小沢家住宅
 
現在松本近郊の交通体系から完全に忘れ去られたに等しい山間に街道風情が残る集落があります。保福寺町は古くから中南信と東北信を結ぶ交通の要衝で、戦国期にはこの群境(筑摩郡・小県(ちいさがた)郡)の守りとして保福寺城が築かれていました。戦国期のこの城下町が基礎となり、江戸時代に松本藩公認の宿場町へとなり問屋が設置されます。さらに宿の東端には松本藩の口番所が設けられました。
江戸初期には近隣で銅山が発見された事から幕府直轄領となり、松本藩預り地となります。

北国西街道の刈谷原宿で別れた保福寺道は保福寺峠を越え、奈良本宿を経て上田城下で北国街道へ合流、さらに信濃追分で中山道経由で江戸へ至る道であることから「江戸道」とも呼ばれていました。松本藩主が参勤交代の際にはこの道を利用する為、保福寺口番所は藩内随一の規模を誇ったといいます。

地名にもなった宿の東端にある保福寺。中世創建の初期保福寺とは直接的な繋がりは途切れ宗派も違いますが、集落の顔である事には代わりありません。集落の東端には桝形が残り、そこから下り斜面に沿って家並みが連なります。ひときわ目立つ重厚な屋敷は本陣を務めた小沢家住宅で現在も当主が住んでいます。

保福寺宿は松本と東京を結ぶ主要街道として、廃藩置県後の明治末期まで峠を越える人馬で繁栄しました。 この時代に英国の登山家ウォルター・ウェストンが保保福寺峠から北アルプス連峰を一望してその荘厳さに感動し、スイスのアルプスになぞらえて”日本アルプス”と命名したといいます。

時代はやがてモータリゼーションの時代となり、中南信と東北信を結ぶ交通の主役は南の松本街道こと国道254号線に移ります。さらに昭和51年(1976)三才山トンネルの開通により、松本ー上田間は従来の約半分の時間で結ばれることとなり、大型車両の通行も容易になった事から、今この峠を越える交通はほとんどありません。
 
東のはずれにある桝形
 
 
 
保福寺の山門