中山道の中央に位置する木曽路には、江戸と京の「中心」を名乗るものが多い。木曽の政治経済の中心である木曽福島は距離的に中間(付近)の宿場町ですが、この薮原宿は江戸から35番目の宿場町という事で「真ん中」を名乗っています。ここは木曽路最大の難所と呼ばれる鳥居峠をひかえて、奈良井宿と対をなす宿場町として栄えた谷間の集落でした。
また飛騨へと通じる飛騨街道奈川道(現在の主要地方道26号奈川木祖線)の追分でもあり、古くは「ヤゴハラ」とも呼ばれた木曽防衛上の要地でしたが、江戸期には「お六櫛」と呼ばれるクシの産地として名を馳せました。
宿の規模は南北5町25間、天保9年の記録で家数378戸、人口は2,009人と集落としては大規模なものでしたが、本陣1軒・脇本陣1軒・問屋2軒・人馬継問屋2軒・旅籠は10軒
(大1・中3・小6)
と少なく、奈良井千軒と言われた鳥居峠対岸の奈良井宿と比べて規模でかなり劣ります。もっとも奈良井宿の旅籠数もそれほど多く、支宿の平沢に依存していましたが。
耕地に恵まれない木曽の宿場町は特別に木材加工で成形を立てる事を許されていました。薮原の名産となった「お六櫛」とは、わずか10cmにも満たない幅に、およそ100本もの歯が挽かれた小さな櫛の事。材料はミネバリ(峰張桜)と呼ばれる堅い木が使わました。
もともとは妻籠宿のお六という娘が考案したと言われ、当初は妻籠がその産地でしたが、材料のミネバリが減少し、そのミネバリが豊富にあったこの薮原がそれに代わったと言われています。
やがて江戸時代後期ごろ、『於六櫛木曽仇討』という芝居によって、お六櫛の名は全国に広がり、大流行をきたすことになったのである。このころの薮原宿内における8割の家が櫛製造に関する仕事に携わっていたと言われていますが、その生産量を物語る、明治9年の記録に「木櫛892筒、東京、京都、大阪をはじめその他諸所へ輸送す」というものがあり、この「1筒」とは約1200枚を1梱にまとめたもので、892筒は約100万枚になります。
現在の国道19号線は薮原の町を大きく離れてバイパスしています。かつての宿場町は木祖村の中心市街・商店街にその名残をわずかに残す程度で、木曽の酒蔵の1つ湯川酒造店付近に一部火災を逃れて残った商家や旅籠が整備保存されています。しかし商店街には今も「お六櫛」の商店が数軒ありました。
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