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  羽沢
はざわ  
 群馬最西端の秘境に残る姫街道沿いの養蚕集落
 群馬県甘楽郡南牧村羽沢字勧能
 構成:切妻せがい造り民家  駐車場:なし
 
勧能集落を見下ろす高台に建つ庄屋格の屋敷

信州佐久地方への入口にあたる下仁田町から、橋を渡り南牧川にそって山中へ踏みいっていくと、そこが群馬県西部最奥端の南牧村です。平地の少ない南牧村の集落は村の幹線道路である主要地方道や県道にそって宿場町のように、また険しい山中の傾斜地にへばりつくように集落が形成されています。いずれも田畑に恵まれず養蚕業などで生計を立てたであろう事が伺える「せがい造り」が特徴の民家が大部分を占めています。
中山道脇往還には現在の国道254に沿った西牧(下仁田町本宿)ルートと南牧から田口峠を越えて信州へ繋がるルートがあり、双方に関所が置かれました。南牧村を横断する主要地方道が、かつて中山道の脇往還である信州姫街道と呼ばれ、古き時代のまま時が止まったかのような家並みが残されています。
姫街道とは女人取締の厳しい中山道横川関を避け、多くの女性の旅人がこの険しい峠越えを行った事からそう呼ばれました。中山道や東海道沿いには姫街道と呼ばれた脇往還が数多くあります。

信州上州国境に位置するこの地域の歴史は、戦国時代に甲斐武田氏が上州侵攻の拠点としてこの地に南牧砦を築いた事に始まり、現在の村名の由来にもなっています。この南牧砦には家臣の市川氏が配されましたが、武田氏の滅亡後、市川氏は帰農して庄屋となりました。石川氏は徳川時代も砥山の経営や関所の関守を勤め、信州佐久郡の新田開発にも大きな功績を残しています。

南牧村最奥の羽沢地区勧能がバスの折り返し地点です。ここから道は2手に分かれ、それぞれ最奥端の集落である馬坂と熊倉に至ります。追分け付近の高台から集落を見下ろすように建つ旧庄屋の屋敷からもこの地区の中心集落である事が伺えます。
信州姫街道の宿場的な商いも行っていた半農半商の集落。建物の更新がほとんど見られず統一感のある家並みが残る一方で廃屋も非常に目立ちます。
村がプロバイダーを運営し、全ての世帯がネット環境を有するIT村ですが。過疎の波には逆らえないようです。


 
 
 
 
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