愛知県の中央部、知多半島の付け根に位置する刈谷市は戦国期から続く城下町として発展し、現在は現在はトヨタ系企業の城下町になってさらに大きく発展した町です。その為にかつての城下町を偲ばせる町並みはほとんど見ることができません。
境川沿いにある旧刈谷城・亀城公園の東側にある銀座地区は旧城下町時代における、本町・中町・末町・肴町・下町にあたり、江戸期より続く太田家を中心に数軒の商家建築がひっそりと残されていました。
刈谷は古くは亀村と呼ばれ、この地に移り住んだ刈谷出雲守に由来すると言われま
す。江戸期までは「苅屋」とも書かれていました。
戦国期に緒川を拠点に知多半島を支配していた水野氏が本城を刈谷に移し、以後水野氏の城下町として発展します。水野氏は徳川家康の母筋の家にあたり、刈谷を拠点に勢力圏を広げました。
刈谷城は家康の母於大の方の父、水野忠政の時に刈谷に築城。忠政は信長に仕え数々の戦功を立てましたが内紛によって粛正され、一族は一時途絶えてしまいます。
その後、
豊臣秀吉に見出された水野忠重が伊勢神戸から刈谷に戻されました。
関ヶ原の戦いで、忠重は東軍に着いたものの命を落とし、跡を継いだ水野勝成が3万石で先祖旧領の刈谷に配されここに江戸期における刈谷藩が成立しまし。
ところがすぐに大和郡山へ出世転封。弟の水野忠清が上野小幡藩より2万石で入りますが、これもすぐに三河吉田藩へ移封。
その後は、徳川家一門の松平家や幕府重臣の稲垣、水野、本多、三浦家などが頻繁に入れ替わり、最後に三河西尾から土井利信が2万3000石で入封してようやく定着。以後9代、120年にわたり在封して明治を迎えました。
戦国期における水野氏の時代には、刈谷城から池鯉鮒(ちりゅう・知立)に至る刈谷街道沿いに町が形成された程度で、本格的に城下町が整備されるのは江戸期に入ってからのことです。
元禄年間には刈谷商人は酒造業を主として、城下には6軒の酒蔵がありました。造られた酒の大半は江戸へと移出されていましたが、灘の巻き返しによって衰退。
苅谷では古くからの商人は新興商人によって取って代わられ、その商人もまた新たな商人によって姿を消すなど、ダイナミックな商業都市でもあったようです。
天保の飢饉では、農村部から町へと移住し商人へと転じる者が多く、不況下の中で逆に苅谷の城下は大きく繁栄していく事になったといいます。
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