海津は古くは貝津とも書き、平安時代からすでに琵琶湖水運の港町として栄えていました。日本海廻船で敦賀に陸揚げされた北陸の諸産物は、七里半越えでこの海津湊に運ばれ、ここから再び船で琵琶湖を縦断し、大津湊を経由して京や大坂へ運ばれました。敦賀からの陸運はもう一つ五里半越えで塩津湊に運ばれるルートがあり、海津と塩津は長く競合関係にありました。 一方で海津は北国街道・西近江路の宿場町でもありました。現在残る海津の街並みは港町・漁村というよりも湖畔の宿場町のたたずまいのほうが強く感じます。
海津宿は南側から、寺院の集まる「海津中小路町」、マキノ東小学校のあるあたりが「海津中村町」 そして現在酒蔵を始めとして最も古い街並みが残る「海津東町」の海津三町からなります。 この三町は明治に合併し「海津町」となったので、現在はその地名はありませんが、通称地名として残されています。
海津は水陸交通の接点として重要視され続けましたが、北前船が下関を経由して直接大阪へ乗り入れる西廻り航路が開拓されると、必然的に敦賀港への陸揚げは激減し、海津や塩津は一転して衰退していきます。
海津浜の石垣は、元禄14年に代官として赴任した西与市左衛門が、台風による水害を防ぐため、海津東浜の代官金丸又衛門と協議し、幕府の許可を得て湖岸浪除石垣を東浜668m、西浜495mにわたって築いたものです。 琵琶湖水運で栄えた港町の遺構のなかで、この石垣の風景が海津の名を有名にしました。
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