一路一会古い町並みと集落・近畿>和歌山>高野口

高野口
こうやぐち
 高野山の表玄関として栄枯盛衰を繰り返した町
 和歌山県橋本市高野口町名倉 【旧・伊都郡高野口町】2006年合併
商家建築・土蔵・木造三階建旅館  なし  JR和歌山線・高野口駅
 
 
橋本市に接する高野口町(現在は橋本市の一部)は、その名のとおり高野山の表玄関として発展と衰退を繰り返した町で、本来ならば古くからの町の中心であった「名倉」で立項すべきところ、今回は町の歴史の栄枯盛衰からあえて「高野口」としました。

高野口は古くから高野山とともに発展していた町で、その中心である名倉には、室町時代に名倉市場の名があり、紀ノ川対岸にある高野山の山麓拠点「高野政所」(九度山町)の門前町的な存在でした。市場町に由来する地名が現在も、市場北脇・市場南脇として残されています。

大坂から和泉山脈越を越えて高野山を目指す参詣ルートはいくつもあり、高野山への登山口も七箇所ありましたが、この名倉にもその高野山参詣道の一つが古くから通っていました。
やがて大坂方面からの参詣客は、根来街道経由や父鬼街道、紀見峠経由など、粉河妙寺、そして橋本経由が主なものとなり、江戸時代には、この名倉を通る高野山参詣は殆どなくなってしまいます。しかし和歌山城下と大和や伊勢を繋ぐ大和街道(伊勢街道)が町を通り、依然この地域の商業の中心地として賑わいました。当時の記録では紺屋3軒、鍛冶屋4軒、大工9年、酒屋5軒などがあったようです。
しかし橋本町を建設した木喰応其(もくじきおうご)の特権を引き継いだ、紀州藩の橋本町保護政策もあって、商工業の発展は進みませんでした。

転機を迎えたのは、明治34年の紀和鉄道(現・JR和歌山線)の開通で、名倉駅が再び高野山の表玄関・正面登山口として復活しました。現在も駅前に残る木造3階建ての趣のある旅館は往時の賑わいぶりを偲ばせます。そして名倉駅を「高野口駅」へと改称。その後町の名も高野口町へと改称しました。つまり「高野口」という名は新しい名だったのです。

ところが大正14年、南海鉄道が高野下まで開通、さらに高野山へ乗り入れる高野山電気鉄道(現・南海電鉄高野線)が昭和5年に全通すると、高野口としての性格は失われてしまいました。

高野口駅前通りと旧大和街道が交差する交差点に建つ大きな旧家・前田家は江戸時代に薬種庄を営んだ商家で名倉の庄屋でもありました。現在名倉に残る古い町並みの多くは、この旧大和街道沿いと旧高野街道との辻付近に最も見られます。建物は多くが2階建ての塗籠造りで明治・大正期以降に建てられたものが大半だと思われます。部分部分で連続性はあるものの町並みの規模としてはそれほど大きなものではありませんでした。

 
旧高野街道筋の家並み
 
旧大和街道筋の家並み
JR高野口駅前に残る木造旅館・駅前旅館としては最高の趣