一路一会>鉄道の旅・鉄路一会>会津只見線を廻る | ||||||
土日で会津〜新潟鉄道紀行 会津只見線を廻る |
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2日目、障子から差し込む光に目が覚める。障子を開けて外を眺めると、なんと雪が降っているではないか。それも大粒な。見渡す限り綿のような白い雪に覆われ、しかも視界も悪いほどに、しんしんと降っている。安堵を通り越して驚喜乱舞である。まあ、唯一の心配はあまりの積雪に肝心の只見線が運休になってしまうのではないか、という事くらいか。悪いことは考えるのをよそう。 とりあえず朝風呂に入り、出発の身支度をして、朝食を広間で摂る。宿の主人に車で駅まで送ってもらった。 昭和62年12月に完成した湯野上温泉駅の茅葺の駅舎は「本物」である。駅舎の中には囲炉裏があり、乗客が暖をとることができる。場合によっては料理が振る舞われる事も。ゆえに駅舎を組み上げる構造物は墨煙で柱や梁はタールを塗ったように黒光りしていた。古民家を移築した飲食店や施設が多いが、これを嫌って囲炉裏に火をくべない例が多い。たしかに維持も大変であろうが、囲炉裏に火をくべた方が茅葺き屋根も長持ちするのである。 駅はの女性駅員で運営されている事でも知られている。駅員といっても地元のおばちゃんに委託している感が強い。最近は、私鉄・JRを問わず、ある程度乗降客のある駅の場合、無人にはせず地元の例えば駅前の商店主などに駅の業務を委託するようなケースが増えているようである。 大内宿同様に湯野上温泉駅もまた、さまざまな季節に訪れている。いつもは写真撮影だけに終わっていたが、今回は乗客として訪れ、そして列車に乗り込むのである。列車に乗らずして湯野上温泉駅の訪問は完了しない。感無量とはこのことか。レールバス1両の会津鉄道AT300系がやってくる。車内は通学の学生であふれていたが、意外に席は空いていたので、曇った窓ガラスを手でぬぐいながら、吹雪いた雪景色に心酔する。 阿賀川の切り立った渓谷にひしめく芦原温泉を過ぎると、山が開け、会津盆地の平野部に入る。国道に沿って建つ、カラフルなトタンに覆われた門田町の茅葺民家の家並みに会津若松がもう近くであることを悟る。やがて左手より線路が迫り合流する。これが只見線であり西若松駅で会津鉄道はJRに乗り入れるのである。 白虎隊の悲劇でも知られる保科松平家23万石の城下町、会津若松もまた何度も訪れている。「自称町並み通」の身としては終点の会津若松駅までは行かず、会津若松城下で数少ない古い町並みが残る七日町(なぬかまち)で下車することにした。七日町駅のレトロな駅舎にはコーヒーショップなどが入っており、ここで一杯やるのも良いのだが、本数の少ない只見線が出発するまでのわずかな時間までに、地酒を一杯やることを急いだ。 会津若松駅発小出行きの只見線は1日3往復6本。日曜の今日の最終は13:08初で、これでも5時間かかるので、終点の小出に着くころには日は落ちている。 |
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出発までまだ、30分ほどあったが、4番線ホームにはクリーム色に濃淡2色の緑の帯をまとった只見線キハ40系2両編成が止まっている。出発を待つディーゼルの鼓動。写真を何枚か撮って乗車する。乗客はまばらで明らかな旅行客と地元の老人ばかり。みなこれからの長い旅路スタイル。この列車、一両は通勤列車のようなロングシートであり、一瞬たじろいたが、もう一両がボックスシート車であった。もっとも利用客の大半は平日の学生くらいだろうし、始発から終点まで行き来するような乗客は私のような旅行客くらいしかいないのだろう。1日の乗降客が1000人に満たない赤字ローカル線だが、シーズンや青春18切符の季節には座席に座ることができないほどの混雑になるという。そういう時期の席取りは壮絶らしい。 |
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