一路一会>鉄道の旅・鉄路一会>青春18キップで廻る・山陰山陽じぐざぐ鉄道の旅(2)
   青春18キップで廻る   
  山陰山陽じぐざぐ鉄道の旅  
 
 
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江津駅とかつてこの町の中心地であった江津本町地区までは山を挟んでだいぶ距離がありそうなので、タクシーを利用した。町の入口まで1メータだった。
江津本町は内陸の町や集落を繋ぐ動脈であった江の川の河口に開けた港町で、かつては北前船も出入りする河海連絡の要衝、物流ターミナルの町だった。明治以降も続いた往時の繁栄を偲ばせる江津本町を一通り歩き、成果を得てから江津本町駅をめざす。駅は小山を越えた先の江の川の畔にあり、休憩小屋のある停留場だ。線路は堤防のすぐ側に設けられ、堤防の下には小さな船着場があった。

この三江線はいつ廃線になってもおかしくないほどの超の付く閑散路線だ。ゆるやかな時の流れと静寂が支配するひと時。やがて16:26狭小なトンネルをギリギリの車体で潜ってハ120系気動車がやってきた。江津発ー浜原行き(451D)はキハ120系313で1両ワンマン。車内はセミクロスシートだがロングシートの比率が高い。三江線はかつて河舟物流の動脈だった江の川に沿って、島根県江津〜広島県三次間108.1kmを35駅で結んでいる。いくつかの駅には待避線があったが、今はみなレールを外され、片側のホームは遺跡のように草に埋もれていた。列車の行き違いが無い事を表している。蛇行する江の川に落ち込むように迫る山肌を削り、わずかな平地に沿ってジグザグに走る線路を、列車は時速15キロから20キロほどの超低速で進んでいく。

数軒の民家しか無い集落の為の駅を抜け、最初に開けた町、因原はかつては奥地から積み出される諸産物の集積地として賑わったらしい。ここから三江線は江の川に沿って大きく北側に迂回する。因原から宇津井までを直線で結べば、相当のショートカットになるのだが、この北側に主要な町が点在している為、それらをパスするとこの路線の存在意味が無くなってしまう。
石見川本駅で列車交換の為に6分待ち。終点浜原の手前の粕淵が美郷町の中心地でもっとも大きい町のようだ。時刻は18時を過ぎていた。
浜原駅で小休憩。今乗ってきた列車は折り返して江津へ帰っていく。そして三次からやってきて再び三次に帰る列車に乗り換えるのだ。ここで運転手も交替する。つまりはお互いの列車に乗り換えて各自家路につくのである。今度の列車(453D)も同じキハ120系357だが、ラインカラーがオレンジ系となる。おそらく芸備線に籍のある列車なのか?。

 
 
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三江線の建設は大正15年(1926)ごろから始まり、「三江北線」として江津〜浜原間が最初に開通した。その後太平洋戦争を挟んで工事が再開され全通したのは戦後になってからであった。つまり運行形態が分かれる浜原から先、三次までの「三江南線」は戦後に造られた為に、北側に比べて高架線もあり橋梁やトンネルも多く線形は非常に良い。よって指定速度も必然とあがるのだ。地上21mの橋上駅の「宇津井駅」など名所もあるが真っ暗で全てが見えない。ただ速度が時速60キロ台になっている事はわかる。

香淀を過ぎると最終コーナーを曲がり、三次まであと少しである。三次は江戸時代に広島藩の支藩であった三次浅野家5万石の城下町として発展した町で「広島の小京都」の一つとも言われるが、古い町並みはそれほど残されてはいない。旧城下町地区は現在の三次市の中心市街から北西に離れている。列車の駅でいうと三江線の尾関山駅がその玄関口である。そして列車は三次駅の0番線に到着した。0番線は1番線ホームのはじっこを鍵状に切り取った「切欠き式ホーム」で行き止まりである。

そして2日目の旅も終わった。問題は本日の宿泊する宿であるが、駅員に紹介してもらった駅前旅館に無事泊まることができた。年末年始に突然の訪問であったが、快く受け入れていただいた。



 
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