一路一会>鉄道の旅・鉄路一会>青春18キップで廻る・山陰山陽じぐざぐ鉄道の旅(2) | |||||||||
青春18キップで廻る
山陰山陽じぐざぐ鉄道の旅 |
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この季節の朝五時台はまだ夜中同然で真っ暗だ。前日の早朝出発の旨を宿の女将に告げ、静かに玄関に立つと女将がわざわざ起きてきて見送ってくれた。24時間のコンビニを除いて寝静まったままの繁華街を抜け、三原駅をめざす。 三原駅は戦国時代に小早川氏によって築かれた三原城の城内に建っている駅である。今も駅前に石垣の一部が残るものの、近年再開発で失われる危機に瀕しているそうだ。かつては海に突き出し、軍港も兼ねて満潮時にはあたかも城が海に浮かんでいるかのように見えたところから、「浮城」の異名も持つ三原城だが、元来土地が少ない場所であるゆえに、城下町の拡大によって埋立が進み、江戸期にはすでに海岸線が遠くなっていた。 三原城天守台へ行くには一度三原駅に入らなくてはいけない。まあ今回は時間が無いうえ、まだ日の出前の時間帯なので立ち入るつもりは無かったが、ホームの上から石垣だけでも目にできるものならば、見ておきたい欲求はあった。ただし、今いる呉線のホームは三原城址とは正反対側の1番線であり、それは叶わなかった。城下町三原の古い町並みは旧山陽道沿いに沿った商店街に、かろうじで商家や酒蔵がいくつも残っていたが、残念ながら現在その大半は廃屋と道路拡幅事業によって消滅する運命にある。 さて2日目の最初は瀬戸内海を望む沿岸部を走る呉線である。呉線は三原〜広島間87.0kmを28駅で結ぶ地方交通線だ。単線だが全線電化されている呉線は、山陽本線の「山越え」に対するのバイパスとして道を歩んだものの、戦時中に軍都広島と軍港呉を結ぶ必要から規格が上げられた経緯があり、現在も沿線の急速な都市化によて悲観するようなローカル線では無い。利用者数も多いことから、複々線化も徐々に進められているそうだ。 早朝の三原駅にぽつぽつと人影があった。しばらくして1番線に入線してきた(5925M)は「快速通勤ライナー」だ。呉までは各駅だが、そこから先は快速運転となる。さすが都市近郊路線だけあり115系の4両編成を2つ繋いだ8両だ。朝5時台にもかかわらず、出発間際になると乗客の数が増えてきた。 大乗駅で列車交換、時刻はまだ6:15。日の出までまだ遠い。次の竹原では5分ほど停車する。特に対向列車の行き違いはなさそうだが、呉線有数の中核都市であるため、始発であるこの列車への乗客が多いことが伺える。 風早駅あたりでようやく空が明けてきた。ホームが3線ある安浦駅で列車交換。仁方駅で列車交換。仁方もまた古い町並みと酒蔵が残る町。東京でも知られる清酒「雨後の月」はここ仁方の酒。仁方からは直線で山を貫き軍都呉へ直交。呉駅はさすがに大きな構内をもつ駅だ。駅周辺には工場も多い。遠くには造船ドッグも見える。海上自衛隊の基地もあるが、潜水艦の基地である為、車窓からは何も見えなかった。 |
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すっかり日は昇ったももの、ここから広島までは都市近郊の色彩が強くなるだけだ。沿線の工場群はそこそこ見応えがあったが、近郊住宅街やビル群、このコンビナートもいつまでも見られたものではない。 ところがである、呉線は事もあろうか、定刻を2分ほど超過して広島駅に到着した。無情にも9番線ホームに芸備線(1852D)の姿は無かった。車内放送の乗換案内も芸備線は30分後の接続しか案内が無かったので不信に思ったのだが。どうりで「乗り継ぎに時間が無いのでお早めに・・・」云々の件がないわけだ。そもそもの旅程の設計に無理があったか。 2日目にして中国エリア残り2日間の旅程がすべて狂ってしまった。JR西日本のロー幹線は路線整備も合理化の為に、異常気象では遅延や運休が多いという情報もつかんでいたため、2日目の宿は取っていなかったのが幸いだったのだが、恐れていたことがこうも早く起こるとは。前途多難である。 |
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山陽本線(329M)は114系2000番台。4両+4両の8両編成だ。後ろ4両は徳山で切り離す為に、前側に乗らなければならない。 ネックになっていたのは芸備線の未乗区間である三次〜広島間と山口県の小野田線と宇部線及び陰陽連絡の美祢線だった。この「M字」のジグザグが繋がらないのだ。しかし、上記の全てを今回はあきらめる事で見えない物が見えてきた。 出来上がったプランは、新山口駅から山口線で山陰に抜け、益田から江津まで特急を使用。三江線を全線乗り継ぎ三次で宿泊。その翌日は芸備線で広島方面では無く、初日に乗った備後落合に移動し、木次線経由で山陽本線をひたすら下関まで乗り継いでいく。完璧だ・・・。問題は三次で宿が取れるかだけだ。 |
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