標高213mに位置する吉松駅で乗り換えるのは、肥薩線の観光普通列車「しんぺい23号」(1254D)だ。
車両はキハ40系を改造したキハ140系2125番。そして、さきほど乗ってきた特急「はやとの風」と同じ改造が施されているのだ。しかし、こちらは普通列車。全席指定席だが、席に座らなければ指定席券はいらない。
自由なパノラマ席があるし、なによりもいちいち席に座っていられないのは、この列車を調べればすぐに分かる。
この「しんぺい」号は古代うるし色に金のエンブレム、車内は木をふんだんに使い、レトロ感あふれる雰囲気を醸し出している。「しんぺい」という変わったカワイイ名前だが、人吉から逆ルートでは「いさぶろう」となる。
この「いさぶろう」と「いんぺい」という名前。何かありそうな事は勘でもすぐに分かる。
この2つの名前。肥薩線が開通した当時、まだ鹿児島本線と呼ばれていたころ、軍部の強い要請によりこの険しく危険なルートの建設に尽力した時の逓信大臣・山懸伊三郎と、鉄道院総裁・後藤新平の名に由来する。
矢岳第一トンネルの矢岳方に山縣(いさぶろう)の「天険若夷」、吉松方に後藤(しんぺい)の「引重致遠」の扁額が残されている。ちなみになぜ後の郵政省(現・総務省)である逓信大臣の名があるかといえば、当時の鉄道は逓信省の管轄だったのだ。う〜む。後で知ったのだけど。
「しんぺい23号」が出発するまでの間に雪の舞う両が増えてきた。空も灰色一色になってきた。いいぞ。
11:40吉松駅を出発した「しんぺい23号」は。短いトンネルをいくつも潜ると最初のスイッチバック駅である標高380mの真幸駅で数分の停車を行った。この真幸駅がある場所は宮崎県である。「真の幸福を呼ぶ駅」とという、誰が考えたか強引な解釈で人気のある駅として知られている。列車の撮影の後に大急ぎで「幸せの鐘」を鳴らして列車は出発。
ちなみにこの真幸駅の手前の山神トンネルの途中には、「復員軍人殉難碑」がある。戦後は昭和20年8月22日に、多くの復員兵を乗せた蒸気機関車が、粗悪な石炭の為に山神トンネルの勾配を登り切れずに立ち往生。煙と熱で充満した車内から絶えきれなくなった乗客達が避難するが、それを知らない運転手は列車をバックさせ、56名が轢死してしまう悲惨な事故を引き起こしたのだ。機関車の運転手も気の毒で仕方が無く、関係者がその後どうなったのか、気になってしょうがない。
続いて、矢岳第二トンネルと矢岳第一トンネルの間で、日本三大車窓と知られるえびの高原を見晴らせる高台で、列車は徐行と停車を行った。桜島が見える日もあるらしいが、今日はあいにくの、いや期待していた雪が降る日の曇り空で、他の乗客にはそれは叶わなかった。
京町温泉郷、霧島連山、韓国岳それに川内川が一望できるとの説明だが、あまりに高く、遠いのでどこがどこなのかいまいち分からない。
肥薩線最大のトンネル(2,096m)を抜けると熊本県に入る。標高536.9mに位置する肥薩線2つ目のスイッチバック駅の矢岳駅はほどよい雪景色だった。駅に隣接する施設には当時のSLが保存されている。
矢岳を出発し、列車は半径300mのループを430mほど下り、標高294.1mの大畑(おおこば)駅に到着した。この駅の建設には、山を1万坪切り開いたと言われるループの中に位置する駅だ。蒸気機関車時代の遺構である煉瓦造りの給水塔や洗顔器が残る。4分の停車。駅には大量の名刺が壁一面に貼ってある。特に意味は無いらしいが、最初に誰かが名刺を張り、それが繰り返されていったのだろう。
惜しまれながらも列車は大畑駅を出発。スイッチバックとループに別れを告げ、「しんぺい」は、ひたすら山を下っていく。いくつものトンネルを抜けると、やがて人吉の市街が見えてくる。右手からくま川鉄道(旧湯前線)が合流してくると終点までもうわずかだ。人吉川に架かる鉄橋を渡り、人吉城址を見ながら「しんぺい23号」は終点の人吉駅2番線ホームにゆっくりと到着した。人吉は鎌倉時代から江戸期を通して700年続いた、相良氏2万石の城下町である。温泉地としての他、球磨焼酎の町としても知られているが、城下町を偲ばせる町並みは壊滅的に失われている。
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