一路一会鉄道の旅・鉄路一会>青春18キップで廻る・九州鉄道の旅(3)
   青春18キップパスで廻る 
  九州ぐるり鉄道の旅
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豊肥本線は同じく九州横断線である久大本線同様に「本線」を名乗っているが、立派な地方交通線である。が、当初から全線、国によって建設された点で言えば、こちらが上のようだが、「軽便鉄道法」によって低規格で建設が開始された点でその存在意義の低さが伺える路線だ。建設は熊本と大分それぞれから始められたものの、1本に繋がるのには時間が掛かり、ここに県を越えての移動はあまり念頭には無かった感がある。それは現在の運行形態からもうかがい知ることができる。

やがて昭和3年にようやく宮地ー玉来間が開通して1本につながった。路線名は旧国名の豊後と肥後から名付けられ、大分ー熊本間148.0kmに及ぶ長大路線だが駅数は37駅しかない。熊本ー肥後大津ー宮地ー豊後竹田ー大分の4つの運転系統に分かれている。
現在、別名「阿蘇高原線」の愛称が付けられているように。世界有数の規模を持つ阿蘇カルデラの中を横断する。
右には阿蘇の火山群、左には崖のようにそびえ立つ北側外輪山の車窓を見ることができる。しかし、地域輸送の需要はあまり無いのが悲しいところ。

九州横断特急6号は15:09に肥後大津駅の2番線ホームに到着した。向かいの1番線ホームには15:21発の豊肥本線・普通列車宮地行きのキハ200系(437D)が停まっていた。ちなみに豊肥本線はこの肥後大津と熊本間は電化されている。その為くる途中ですれ違う列車は初日に日豊本線で見た、新型815系が走っている。
肥後大津から大分までは電化されておらず、気動車で結ばれる。

肥後大津駅を出ると列車は阿蘇山へ向けてまっすぐに突き進んでいく。さて、日本最大のZ型3段スイッチバック駅である立野駅はすぐ一つ先の駅である。33‰の急勾配の中につくられた駅で、第3セクター南阿蘇鉄道の乗換駅である点が他に類をみない。

立野駅はホームの長さが長く、さらにスイッチバックの容量も相当に長い。それもそのはず、先に乗ってきた九州横断特急もまたここでスイッチバックをするのだ。他の地域のスイッチバック線の多くは、特急列車などの通過列車の為に、スイッチバックをスルーする新線が設けられていて、特急列車でスイッチバックを体験する事はかなり稀少であるが、この豊肥本線ではそれがあったのだ。

立野駅を逆向きに出発し、再び向きを替えて列車はさらなる勾配を登っていく。列車のエンジンは唸りっぱなし、V字に切り立った渓谷が眼下に遠ざかっていく。一時、遠くに離れていった国道も、やがて線路にくっつくほどに接近するほど平地がなくなり、眼下に谷間がせまる。

高度が上がるにつれ、車窓に残雪がちらほら見え始めた後、列車は一気に雄大な自然の中に放り出される。
赤水駅、市ノ川駅、そして内牧駅、豊後街道の宿場町であり温泉地としても知られる内牧は駅からだいぶ離れている。阿蘇駅、いこいの村駅、そして終点の宮地駅には16:11に到着した。ここで40分近い待ち時間。駅前には何もない。宮地駅は阿蘇神社の門前駅で初詣の時期にはかなり混み合うそうだが、今日は元旦。まるで人影が無い。もっともみな車で訪れるのだろう。

 
 

宮地駅から16:55発の(2425D)はキハ220系。先ほど乗ってきたキハ200系の両運転台の1両ワンマン車だ。日本車輌製で顔つきが少し違う。前面・側面の行先表示器はバス用のLED式を流用している。車内は白を基調として木の素材を多用した明るく、マンションのキッチン周りを思わせる内容だ。
ブラインドは無く、窓は濃い緑がかった「UV96」。片側クロス、片側ロングのセミクロス仕様だ。

宮地駅を出発した列車は「ひ」の字で勾配を稼ぎ、エンジンを唸らせながら山を越え、いくつものトンネルを抜けて波野駅に到着した。同駅はプラットホームだけの駅だが意外に乗降客がいた。次の滝水もまた同様に乗降客があった。滝水駅の方が波野村の玄関口らしい。
ホームには雪が積もっている。そして滝水駅を出て直ぐに国境を越え豊後国・大分県へと入る。蛇行しながら勾配を下っていく。豊後荻の次の駅、玉来は豊後街道の宿場町。そして豊後竹田駅に到着した。時刻は17:35、日はほとんど落ちている。豊後竹田は難攻不落の岡城で知られ、江戸期は岡藩7万石の城下町として栄えた。日本を代表する作曲家、滝廉太郎の”荒城の月”の町としても知られる。岡城下は天然の要害で、トンネルと橋を越えなければ市街地へと入ることができない。かなりカッコイイ町である。外部と隔絶された感もあるが、城下町を偲ばせる古い町並みは、わずかに残る程度である。

ここでは15分ほどしか時間がない。トイレを済ませ、向かいのホームに待つ大分行き(4459D)に乗り込んだ。

 

豊後竹田駅から先の列車(4459D)は17:52発の大分行きで、車両は再びキハ200系で今度は新潟トランシス製だった。朝地駅の次の緒方駅で列車交換。この駅は駅員のいる大きな駅だ。緒方町は緒方井路とよばれる水路の里で、数軒の酒蔵もある。
豊後清川駅は立派な木造の駅舎だが無人駅。三重郡の中心で市場町として栄えた三重町の三重町駅は3線ホームを有する有人駅。そして菅尾から大分まではすべて有人駅。もうこのあたりに来ると大分市の通勤圏のようだ。
犬飼は大野川水運といくつもの街道が合流する交通の要衝、宿場町・河港として栄えた町だった。江戸時代から明治にかけての話しだが、いまも忘れ去られたように伝統的な商家が残る町である。その後、5つほどの駅を経て、大分駅の6番線ホームに到着。時刻は19:05である。

ここから日豊本線は411系4両編成小倉行きに乗って別府へ。そして最終フェリーで別府港から四国に渡る。最終フェリーは深夜の2時ごろに八幡浜港へ着くが、5時まで仮眠できる。1泊浮く算段。
別府駅前の公共浴場で温泉に浸かり、別府駅ビル内のレストランで食事を済ませ、タクシーでフェリー埠頭へむかった。なんだかあっという間の九州3日間であった。



 
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