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   青春18キップで廻る   
  山陰山陽じぐざぐ鉄道の旅  
 
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さて岡山から先である。当然ながら工場群を車窓に走る電化の山陽本線を避けて、歴史ロマンあふれる風土記の地をゆく吉備線に乗り換える。吉備線は20.4km、10駅の短い地方交通線だ。津山線と同じく中国鉄道によって建設された。明治37年に岡山ー総社(現在の東総社駅)まで開通。大正14年に伯備南線(後に伯備線)が開通すると、同線の西総社駅(現在の総社駅)まで延伸して接続した。

現在は主に通勤通学がメインで、吉備路に併走する観光路線でもある。「桃太郎さんのメロディ」で向かいの10番線ホームにやってきた(731D)は、先ほど乗ってきた車両と同じ配色のキハ47系2000番台の2両編成だったが、車内はなんとのオールロングシートだった。よく見るともう一両の車両はセミクロスシート。いずれにしてもロングシートの比率が高い。しかも、その理由を示すように乗客が多い。もっとも連休とはいえ朝の通勤通学ラッシュの時間帯だ。大半は学生だった。

列車は8:09岡山駅を出発。始め高架線で市街地を抜けるが、すぐに地上に降りて普通の単線のローカル線になる。次の備前三門駅は学園町であり、車内を占めていた学生達のほぼ全員が降りていった。大安寺駅で列車交換。備前一宮駅、吉備津駅。列車からは吉備津神社は見えない。山陽自動車道の下をくぐって、右手に大きな鳥居が見えてくると備中高松駅で列車交換。「歴史ロマンあふれる風土記の地」とは言っても、いたってふつうの田園風景である。次は足守駅。は今なお重厚な古い町並みが残る木下家足守藩2万5000石の城下町足守は駅から北へ約
4kmほど離れた場所にある。岡山自動車道と少し併走して岡山市から総社市に入る。服部駅から南へ3kmの場所には備中国分寺跡がある。終点まであと1駅の東総社駅で列車交換の為に2分停車。ちょっと気をもんだが、終点の総社駅3番線に定刻どおり到着した。

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ここから伯備線に乗り換えるのだが、乗り継ぎはなんと1分。が、向かいのホームでの接続であり、それを前提にダイヤが組まれている。8:47やってきた伯備線(1823M)は首都圏や東海圏でよく見る、国鉄末期の近郊型ステンレス車両211系の兄弟の213系2両ワンマン車を2つ並結した4両編成だった。車内は転換クロスシート。伯備線は一部複線化も行われ、今なお高速化改良工事が進められている。乗り心地は良い。今回の山陰・山陽の旅では極めて数少ない「電車」であり、モーター音と俊敏な加速が心地よい。

伯備線は倉敷を起点に鳥取県の伯耆大山まで138.4km、28駅を結ぶ山陽・山陰連絡の「幹線」である。名前は旧国名の備前国と伯耆国の頭文字。名称に「本線」は着かないものの、集中的に整備され電化もされた。特急などは岡山をでて山陽本線の倉敷を経由し、第3セクターに分離された井原鉄道と共用する一部区間を走って、この総社から中国山地を縦断し、山陰の米子・松江へ至る。当初乗る予定だった、東京 - 出雲市間の寝台特急「サンライズ出雲」も伯備線を経由して山陰をめざすのだ。

列車は高梁川に沿って備中高梁をめざす。ここから運転系統が分かれ、新見行きの接続は1時間以上あるが、備中高梁は見所がたくさんある町でもう何度も訪れており、今回もまだ訪れていない地区を歩くことにしていた。意外にもその場所は駅のすぐそばだった。
備中高梁は板倉家松山藩5万石の城下町として栄えた町で、石火矢町には武家屋敷、本町周辺には商家の家並みが残る。一方松山城は日本三大山城の中で最も高い場所に建ち、天守閣が町を見下ろしている。今回の目的地は石垣と白壁塀からなる城郭のような頼久寺である。駅のすぐ右手にあるが、歩くと15分ほどかかる。25kgほどある荷物と機材を背負って、頼久寺との往復は少し堪えたが、なんとかギリギリ駅に戻ってこれた。



備中高梁駅の1番線にやってきた10:13発の(845M)は、旧型車両の115系1000番台4両編成。
車内はボックスシートから転換クロスシートに変えられており、シートと窓の位置が微妙にずれている点は愛嬌。
木野山駅で列車交換の為に5分の停車。何がやってくるのかとカメラを構えたら貨物列車・・・では無く機関車1両だった。次は備中川面駅で3分待ち、方谷(ほうこく)駅は小さな駅だが、幕末の儒学者山田方石にちなむ珍しい人名の駅名という。
高梁川が左手から右手の車窓に変わると、川沿いの信号場で対向列車を待つため4分停車した。駅の無い信号場で止まるのは初めてだ。ここは広石信号場で、やってきた対向列車は特急「やくも」だった。井倉駅はカルスト台地に形成された山水画のような渓谷と洞窟で知られる井倉洞・井倉峡の玄関口だが、駅周辺はセメント工場群だ。
次の石蟹(いしか)駅もかなり大きな駅だ。石材搬出のために貨物引き込み線が何本もあり、ホームも2面3線あり、いずれもセメントで栄えた駅だったが、大手の小野田セメントが撤退してからすっかり寂れてしまった。そしていよいよ初雪の残雪が見え始めてくると新見の町が見えてくる。

新見もまた城下町(陣屋町)であり古くからの街道の要衝として発展した町だが、町の中心である本町は駅からかなり離れている。本町商店街には古い商家がわずかだが散見する程度に残されている。一方新見駅周辺は寂れているものの、駅近くの国道沿いには郊外型の店舗が並び活気づいている。新見市役所や行政機関は最も町はずれにあり、もはや鉄道を含めた公共交通機関が生活の足になっていない証拠である。
高梁川沿いには古い建物が多く見られる。「伝統的な建築物」では無く「古い建物」である。それらを車窓に見ながら列車は新見駅の3番線に到着した。

町はずれに立つ新見駅前には商店街も無く、食堂と酒屋など数軒の店がある程度で、ここが町の玄関口である。そしてその1軒の食堂で「新見そば定食」と地酒で腹を満たして駅にもどった。
新見駅の構内にはワンマンディーゼル列車でレールバスと呼ばれるキハ120系がいくつも止まっていたので、次ぎに乗る列車の検討はついた。新見駅は伯備線と共に陰陽連絡線の姫新線も乗りいているハブターミナル駅だが、鉄道全盛の時代の喧騒はもはや無い。
姫新線は名称のとおり姫路と新見を結ぶ路線。1番線が芸備線の駅で、構内に停車していた車両では無く、備後落合からやってくる折り返し運転を待つ。


 
Page1■ 津山線・吉備線で岡山を駆ける
page2■ 伯備線・2つの小さな城下町
Page3■ 芸備線・福塩線で広島縦断
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