一路一会鉄道の旅・鉄路一会四国フリーキップで廻る・四国ぐるり鉄道の旅(2)
   四国フリーキップで廻る 
  四国ぐるり鉄道の旅2
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阿波池田は徳島・香川・愛媛・高知を結ぶ街道が十字に交差する交通の要衝だ。「四国の十字路」と呼ばれ、阿波西部における経済、産業、文化の中心都市。吉野川水運や煙草の生産で栄えた町だが、交通体系の変化や煙草の国有化によって町は衰退した。

ここから先は高知まで、祖谷渓、大歩危・小歩危などの秘境山岳区間を走る。それゆえに長い間その建設が阻まれ続け、琴平から先は放置されてきた。しかし徳島から徳島鉄道が吉野川沿いに阿波池田まで延伸してきたの期に、それに接続する為に琴平ー阿波池田間の建設が行われる。徳島鉄道は国有化されて徳島本線となり、佃信号場で接続1本に繋がった。佃信号場は後に佃駅に昇格している。
佃駅から阿波池田を経て高知へは徳島本線の延伸として計画され、一方で高知県側では須崎から土佐山田まで高知線が開通していた。土佐山田から最大の難所である大歩危・小歩危を経て徳島本線と接続する区間は土讃線として建設が進み、昭和10年、ようやく全通して高知県(土佐)と香川県(讃岐)が結ばれると、多度津〜須崎間を土讃線と改称した。

大歩危小歩危に入ると山の斜面に残雪が見えてくる。山の中腹の斜面には天空の集落が形成されている。集落は山の上の方まで広がっている。平家の落人伝説が残る地らしい風景だ 。小歩危駅と大歩危駅の区間は小さなトンネルが連続する。小股で歩いても、大股で歩いても危険といわれるほど、断崖絶壁で土地の少ない場所を列車は進む。
大歩危駅で特急列車交換の為に3分ほど停車。大歩危駅を出ると土讃線最長の大歩危トンネル(4,179m)を抜けて高知県へと入る。列車は土佐山田駅まで停車しないが、途中の土佐北川駅は秘境駅として知られる駅で、「橋の上の駅」だ。自然災害が多く、土讃線のルート変更が行われ、今の駅が誕生した。土地の厳しさを物語っている。

土讃線最大の難関である大歩危小歩危を抜けても土佐山田までは容易では無い。線路は複雑に入り組む山岳地帯を縫うように、うねりながら平野部を目指す。新開(しんがい)駅もスイッチバックの秘境駅だ。土讃線にはスイッチバック駅が2つある。平野部の入口、停車駅の土佐山田駅で特急列車と列車交換を行う。このあと「南風1号」はストレスを発散するかのように速度を上げる。後免駅は土佐くろしお鉄道「ごめん・なはり線」との接続駅だ。もうここは南国・高知市の近郊。そして高知駅に到着。

高知駅は高架化され近代駅な駅になっていた。ここで、特急「南風1号」は、後ろの特急「しまんと3号」3両を切り離す為に10分停車する。切り離し作業を見学する。さすが高知県、気温はかなり高い。ちなみに後ろの特急「しまんと3号」は「南風1号」と同じ2000系だが後期型で新型列車を思わせる外観になっている。

「南風1号」は9:50の出発。土佐和紙の産地として知られる伊野駅まで高知市の近郊風景が続く。斜めからの強い日差しの為もあってカーテンを閉めてレポートを書き留めていたものの、朝が早かった為にいつのまにか居眠りしてしまった。気がついたのは佐川駅を過ぎたあたり。佐川は内陸部に位置して特に交通の要衝というわけではないが、藩政時代には土佐藩の総大将、深尾家の城下町として発展した。白壁の古い町並みと酒蔵の町だ。
高知県有数の港町、須崎港の玄関口須崎駅で停車。土讃線の前身である高知線の建設資材はこの須崎港から陸揚げされた。2面3線のホームにいくつもの留置線を持つ大きな駅だ。

10:39今日の町並み散策の目的地土佐久礼に到着した。土佐久礼は戦国大名佐竹氏の城下町に始まり、江戸期には内陸部の村々と海運を結ぶ物流拠点として発展した港町だ。現在は漁業に特化し、土佐鰹の一本釣りで知られる町。

予定よりも早く町並み散策が終わったので、帰りの上り特急列車をただ待つのでは無く、このままでは未乗区間となってしまう土佐久礼ー窪川間を完乗する為を決めた。窪川まで普通列車で向かって、そこで本来乗る予定の上り岡山行きの特急列車に乗ることにした。窪川止まりの(4737D)は11:23到着予定。4駅で終点窪川駅に到着する。

須崎まで来ていた土讃線は日中戦争を挟んだ昭和14年に土佐久礼まで伸び、さらに戦後の昭和29年に窪川まで開通して、ここで予土線と接続。1つのループが完成した。さらにもう一つのループ(循環線)が計画される。中村から宿毛を経由して宇和島にいたるルートである。そして中村までの延伸が決まり、土讃線は土讃本線に昇格した。が、中村線はその後第3セクター「土佐くろしお鉄道」に分離されてしまい。中村経由の循環線は日の目を見ることがなくなった。それでも土佐くろしお鉄道によって宿毛までは延伸される。

四国の鉄道の旅では同じ駅に2度、3度と立ち寄る事が多かった。一筆書きではなく、盲腸線のように同じ路線を行って帰ってくる事となったからだ。
大きな理由は宿泊地にこだわったこと。時間的にたどり着ける何も無い町では無く、その日の夜に何をするかを考えたのだ。本州・九州の旅ではあまりそこは考えなかったが、四国では重要な要素だ。
1日目は松山・道後温泉、2日目は琴平と「こんぴらさん」で初詣という感じだ。

 
 
Page1■ 大歩危小歩危を抜けて土佐国入り
page2■ 土佐の小さな港町
Page3■ 阿波池田から金毘羅さんへ
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