一路一会鉄道の旅・鉄路一会>四国フリーキップで廻る・四国ぐるり鉄道の旅(1)
   四国フリーキップで廻る   
  四国ぐるり鉄道の旅  

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昨晩別府港を出港したフェリーは深夜2時すぎに八幡浜港に到着したようだが、2等客室で朝の5時30まで眠っていた。

JR八幡浜駅までは徒歩で30分ほどありそうだったが、こんな時間にもかかわらず埠頭にはタクシーが列を成していた。しかも今日は1月3日、つまり正月。本当にご苦労さまである。寝ていた運転手をお越し、タクシーで駅へと向かった。八幡浜駅にはそこそこの人がいた。フェリーで見かけた人も何人かいた。八幡浜駅は有人駅で窓口も開いており、キップを買う数人の列が出来ていた。

四国入りの玄関口となるこの八幡浜駅で「四国フリーキップ」を買う。金額は15,000円。あえて「青春18キップ」を使用せずにこのキップを買ったのには理由がある。四国は全線がほぼ閑散ローカル線といっても過言では無い。それだけJR四国の経営は厳しい状況に置かれている。かつては「予讃本線」などいくつもの「本線」が縦横に走っていたが、JR四国はこの本線の名称をすべて廃止してしまった。

本州や九州での路線ではローカル線に限らず「本線」であっても「地域輸送」に特化して、中核都市を中心にいくつもの運行形態に分断されているのだが、この四国においては工業ベルト地帯である瀬戸内海側地域の一部区間を除いて、地域輸送すら成り立たないほどに、住民の生活から「鉄道」とういう手段が消え失せている状態である。
ゆえに、都市間輸送と県外からの旅行客に主眼を置いた、特急列車を中心としたダイヤ編成になっているのだ。

なにより、この広大な四国を3日間で廻りきらなければならない。それに加えて、さすがに今回の旅も7日目を向かえ、丸一日、終日列車を乗り続けるのではなく、多少は旅情を感じられるような「町歩き」の要素も加えたいという強い欲求があった。それを予想して事前にある程度のコースは容易していたのだが。そうなると、もはや特急列車をフルに活用しなければ成立しないのだ。そしてこの「四国フリーキップ」は3日間、全ての列車が乗り放題のかなりパワフルでお買い得なキップなのである。

さて、八幡浜から今日最初の主要都市である松山までは、ちょうどこの時間にやってくる特急列車がある。ところが今回はあえてそれには乗らずに、後続の各駅停車に乗ることとしていた。本来ならば少しでも早く時間を縮めておいた方が、今日のスケジュールには欠かせないのだが、これにも理由があった。

四国の旅では、いくつか欠かすことの出来ない「鉄旅の重要ポイント」があった。今日最初の目的地は予讃線の
「下灘駅」であった。ホームの目の前に瀬戸内海が広がるこの駅は、四国の列車旅関連の書籍などでは必ずといっていいほど紹介され、四国の鉄旅では外すことの出来ない「聖地」の一つなのである。以前、この駅の写真を見てから、あこがれの場所であり、今回ようやくその念願が叶ったのである。

ところが、ここで問題があった。予讃線は海沿いを走るルートと、新たに建設された山間を走る2つのルートがあるのだ。戦前から予讃本線として海沿いに建設された低規格の線は「長浜ルート」と呼び、新しくバイパス線として建設された山側の線は「内子線」という路線で予讃線「内子ルート」とも称される。内子線は大きくショートカットするうえに、線路の規格も高く、特急列車はみなこの予讃線「内子ルート」と呼ばれる新線を走るのだ。したがって特急列車に乗ると「下灘駅」にはお目見えすら出来ないのである。
もっとも、たとえ特急列車が長浜ルートを走ったとしても、「下灘駅」に停車することはないであろうけど。

 

八幡浜駅は2面3線のホームの他、たくさんの留置線を持つ広い駅だった。ホームに入ってきた、5:42発松山行き普通列車(912D)はキハ47系100番台の4両編成で当駅始発である。普通列車の4両編成は、久々に見るので長く感じる。

列車は定刻に八幡浜駅を出発。次の停車駅・千丈駅ではホームが短いために先頭車両のドアは開かない。地方ではよく見る風景だ。千丈駅を出ると長い「夜昼(よるひる)トンネル」を抜けで大洲市に入る。大洲は「伊予の小京都」と呼ばれ、古い町並みの残る城下町だが、あたりは真っ暗で町の全体像も何も見えない。
伊予平野・西大洲・伊予大洲に停まる。伊予大洲もまた2面3線の大きな駅。伊予大洲を出ると予讃線は内子線と2つに分かれる。次の五郎駅が古くは内子線との分岐駅だったが、路線改良によって高規格の新線が建設され、若宮信号場に分岐点が移動したそうだ。

春賀(はるか)・八多喜(はたき)伊予白滝に停まり・伊予出石駅あたりから、水面の輝きが現れはじめた。夜明けも近い。水面は海ではなく川だ。肱川(ひじかわ)の河口に開け、木材などの集散地として栄えた伊予長浜までこの川沿いを走り、ようやく瀬戸内海と対面する。
肱側河口に架かる赤い可動橋は、昭和10年(1935)に架けられたバスキュール式の開閉橋で今も現役である。

伊予郡と喜多群の境界に立つ喜多灘駅を過ぎ双海町に入る。串駅のあたりでようやく空に青味がでてきた。そしていよいよ、夢にまで見た「下灘駅」に到着。時刻は6:47。

列車を降りると海岸に打ち付ける波の音に包まれる。目の前に広がる神秘的な瀬戸内海の景色。もっとも、ホームの真下まで波が打ち付けていた時代はずっと過去の事で、現在は海岸線を埋めた建てて国道が走っている。唯一の幹線であるこの国道の交通量は多く、時間帯によっては車の騒音が波の音を掻き消してしまい、あまり大きな期待を抱いて訪れると幻滅してしまう事もあるらしい。幸いにしてか元旦の早朝に車の姿はほとんど見なかった。

次ぎにやってくる列車まで1時間近くある。しかし今日のこの1時間はあまりに短い。季節は冬だが風も無く、気温もそれほど低くはない。ゆっくり風景を堪能する時間もそれなりに設定していたが、興奮の中でシャッターを切り続け、あっという間に滞在時間が終わってしまった。

7:33やってきた松山行き普通列車(914D)は、なんと特急車両だった。キハ185系300番台の2両編成。リクライニングシートはフェリー泊した体にはやさしい・・・が、よく見ると、リクライニング機構もシート回転機構もすべて殺してあった。この列車は実は、特急列車の間合い運転では無く、普通列車に格下げされた車両だったのだ。わざわざリクライニング機構を封じなくてもよかったのではないか?と少し憤慨したが、それでもずっと快適だ。

四国の普通列車は、ほぼ大半がロングシートらしいから、それよりは十二分にましである。列車は海岸線のわずかな土地を縫うように走る。カーブが多く速度は40〜50キロといったところ。伊予上灘駅で列車交換。上灘は先ほどの下灘と合併して双海町となり、その中心の宿場町として発展した町だ。車窓からは古い町並み特有の屋根の形が連なり、わずかだが白壁漆喰の商家も垣間見られた。現在双海町は合併して伊予市の一部になっている。もう松山市近郊に近づいていて、終点まではあと少しである。


 

国鉄時代には予讃本線と呼ばれていたJR予讃線は、伊予と讃岐の一文字を取って付けられた名前のとおり、香川県高松市と愛媛県宇和島市間297.6kmを結んで、四国の北西部をカバーする長大な幹線である。ようやく高松ー伊予市間が電化されているものの、大半はまだディーゼル列車が走り、特に松山以南は地方交通線なみの低規格だ。

この予讃本線の歴史もかなり複雑である。昔から四国の鉄道は優先順位が低く、国営化やその後の建設を見ても非常にゆっくりとしたものだった。はじめ高松ー多度津間を開業した山陽鉄道を買収国有化した後、松山まで延伸。ここで香川と愛媛の県庁所在地が結ばれて予讃本線となった。続いて松山から先は讃予線(字が逆になるので注
意)として建設が始められる。(正確には伊予西条以西が讃予線となる)

そのころ伊予大洲〜伊予長浜間を開業していた愛媛鉄道は現在の内子線の前身を建設していた。また宇和島付近では、現在の予土線の前身である宇和島鉄道があった。これらを全て国有化して、予土線と讃予線の建設が宇和島から西と北へとそれぞれ向けて進められていく。やして太平洋戦争が始まると軍港宇和島へ通じる同線の建設が軍部の要請によって急ピッチで進められ、ついに松山〜宇和島間が1つに繋がったのだが、このとき軍部は路線の早期開通を最優先とした為に、この複雑で険しい地形を走る路線の規格は非常に低いものとなってしまったのだ。

ちなみに、慢性赤字のJR四国では路線の電化や高速化などがなかなか進まない一方で、高速道路の建設はどんどん進み四国内の道路ネットワークが完成しつつある。それへの対抗としてJR四国では新型の特急用高速気動車の開発が急がれた。そして生まれたのが世界初の「制御式振り子式」を導入したJR四国2000系車両であった。
自動車との激しい競争を強いられていたJR四国は財政が厳しいながらも、大量にこの新型特急車両を投入していくことになる。
その為に旧国鉄製のキハ185系特急車両が大量に余剰ぎみとなり、一部編成がJR九州に譲渡され、また今乗っている列車のように普通列車に格下げ運用されているのだ。JR四国内では特急列車としては引退が進んでいるが、徳島線・牟岐線では特急「剣山」としてまだまだ活躍している。
このキハ185系は、国鉄分割民営化時に経営困難が予想されたJR四国の為に、旧国鉄が置きみやげとして集中的に投入した列車であったが、先見の明が無かったのか、皮肉にもその引退は早いものとなってしまった。

車窓からは瀬戸内海の島々、防予海峡の先に山口県が見渡せる。高野川駅を過ぎるとやがて枕木の間に雑草が生えたローカル規格の線路の先にコンクリートの高架線が現れてくる。高架は内子線で、合流して向井原駅に到着。
次の伊予市駅からは電化区間の始まりである。伊予市は古くは郡中といって松山藩の重要な港町であり、物資の集散地として栄えた町だった。なかでも郡中三町とよばれるあたりがその中心地で、今も往時を偲ばせる古い町並みが残されている。

鳥ノ木・伊予横田・北伊予・市坪を経て8:25列車は終点・松山駅に到着した。松山駅は愛媛県の県庁所在地であるが、そのわりに駅は2面3線の小さな駅だった。

 
Page1■ 四国上陸・内灘駅と宇和海
page2■ 松山市大手町駅の平面交差
Page3■ 四国の超ローカル線・予土線
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