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   四国フリーキップで廻る   
  四国ぐるり鉄道の旅3  
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牟岐行き普通列車(4545D)はローカル線の雄、キハ40系2000番台2両編成。かと思ったら1両は回送車で後ほど切り離す予定とか。
高徳線のダイヤの乱れの影響を受けて遅れた鳴門線の接続を待って、定刻を遅れること10:43に列車は徳島駅を出発した。乗車率は高い。見た感じは地元の学生だけではない。
先の鳴門線とは違い、今度は四国の島東部を駆け抜ける長い乗車で、この列車の終点牟岐には12:42に到着予定。そこで乗り換える事牟岐線の終点である海部には13:10の到着だ。

徳島を出て、小松寺市、阿南市と主要都市近郊を抜ける。ローカル線ムードは車両だけ。車窓は近郊市街地が終わったかと思いきや工場群が続く。牟岐線は「阿波室戸シーサイドライン」の愛称があるが、はっきり言うが全線を通して「海」が見れるのは、実にほんの僅かしかない。それを知ってから若干、結構機嫌をそこねぎみである。

しばらくはこれといった車窓も無いので、この牟岐線の生い立ちについて触れてみる。このJR牟岐線は四国の東海岸を占める徳島ー海部間の約79.3kmを走る路線で、駅数は30駅あり、これを約2時間半で結ぶ。地方路線にしては駅数が多く、ほぼ2.5kmに一駅ある感じで、これは大都市圏に匹敵する。

はじまりはやはり私鉄で、大正2年に汽船会社の阿波国共同汽船が小松島港に発着する船と徳島を結ぶ連絡線として開業した。大正5年に阿南鉄道が小松島の手前に、新たに「中田駅(ちゅうでん)」を設置して、そこから分岐する形で古庄まで開業した。さらに今度は国鉄が阿南鉄道の羽ノ浦駅から分岐する形で牟岐線として室戸半島先端へ向けて建設を開始し最終的には海部まで延伸した。
その後、阿波国共同汽船と阿南鉄道は買収国有化され、徳島ー海部間を結ぶ今の牟岐線が誕生した。一方で、中田駅ー小松島駅は小松島線となるが、これは昭和60年に廃線となってしまった。もう一つ、旧阿南鉄道の羽ノ浦駅から一駅だけ支線となった古庄駅間も昭和36年に廃線となり、今の姿となった。その後、当初の計画では室戸半島を一周して高知に至る循環線となる計画だったが、夢は叶わなかった。

しかし海部から先は第3セクターの阿佐海岸鉄道が設立され甲浦まで延伸。一方高知県側では土讃線の後免駅から第3セクターの土佐くろしお鉄道が奈半利まで建設したが、その後両社の延伸はストップしている。

 
 

さて、いよいよ車窓はローカル色が出てきた。立江駅でようやく最初の列車交換だ。この立江駅は四国札所19番所立江寺門前の駅。阿南駅では列車交換は無いが6分の休憩だ。この駅は徳島県南部の中核都市・阿南市の玄関口だけあり客待ちの時間を多くとっているのだろう。

阿南駅を出ると沿線人口も激減し、いよいよローカル色が濃くなっていくが、海とも分かれて内陸部へと入っていく。桑野駅は海抜600mの太龍寺山の山頂近くにある四国札所21番所大竜寺の玄関口で、牟岐線の遙か上を大竜寺ロープウェイが走っている。もっともロープウェイの駅は少し離れた国道沿いにあり、鉄道の存在は無視されている感じだ。このロープウェイを運営する会社は、四国各地にある高所の寺院をロープウェイやケーブルカーで結び、参詣客のアクセスを向上している。

まあ、そんな事は置いておいて、由岐駅から海部郡に入る。由岐浦は歴史の古い港町で、駅から少し離れているものの、港町には今も往時を偲ばせる古い町並みが残る。ここから本格的な「海線」となるが、リアス式海岸を縫うように走るため、小さな入江が多い。やがて列車は思い入れのある地へと到着する。四国札所23番所薬王寺と日和佐城、そしてウミガメの産卵地として有名な日和佐だ。北河内谷川が日和佐湾に注ぐ山の上に日和佐城が出迎えてくれる。もっともこの日和佐城は史実とは無縁の架空の建物なのだが、車窓には基調な景観だ。

日和佐駅を出ると路線名となった牟岐駅まで再び内陸部を走る。山間の集落ごとに設けられた小さな駅をいくつも経て、第1の終点、牟岐駅で特急列車との交換と徳島駅から引いてきた回送列車の切り離し作業の為に20分近い休憩となる。牟岐もまた歴史の古い港町で伝統的な商家など古い町並みが残されている。

時刻はとっくに昼を廻っており、終点の海部ではおそらく飲食店を始め、食を提供する店はなにも無い可能性が高い。あったとしても今日はまだ冬休みだろう。今この時間に食糧を仕入れておく必要がある。幸い牟岐駅前には
(ローカルな)コンビニがったので(不本意ながらも)何点かの食料を仕入れた。

終点海部駅まではわずか4駅だ。海部は古くからの海上交通の要衝であると共に、江戸時代には阿波南部の政治経済の中心地として陣屋が置かれていた。陣屋はその後日和佐へと移転するが、海部の港町である鞆浦は依然として賑わい、今も古い商家建築など伝統的な家並みが残されている。そんな海部駅をなぜ切り捨てるように、運行形態を分断するのか。

実は、牟岐駅では時刻表では乗り継ぎとなっているが、実際は今乗ってきた列車の後ろを切り離すだけだったのであるが、それでも納得いかないままで、終点の海部駅に到着し、その理由が少しながらも理解できた。

牟岐ー海部間は圧倒駅に利用客が少ないのは、あまり大きな理由ではなさそうで、問題は駅設備にありそうだ。
海部駅は高架駅で相対ホームであった。おおよそローカル線の終点駅には似つかわしいが、片面では無くなぜに2つものホームがあるのか?実は向かい合うホームはそれぞれ別の線なのである。JR牟岐線として1面のホームしか無い。しかしここから先も線路は続いている。実現する事は無い室戸半島一周する夢を深く抱いた、第3セクタ阿佐海岸鉄道が、この先わずか3駅を営業運転しているのだ。

この海部駅で、今乗ってきた列車は折り返し(4562D)となる。そして出発時刻の直前に、向いのホームに阿佐海岸鉄道の1両ワンマンASA100系列車が到着した。


 

海部駅を出発した列車はひたすら今来た道を戻る。せっかくなので、今度は逆側の窓席に座った。
牟岐駅に13:33着。乗り換える列車は徳島から引いてきて、数十分前に切り離した後ろの列車だった。今乗ってきた列車はこの後、再び海部との往復を行う。なんという車両のやりくりだ。

来るときは気が付かなかったが、途中の山河内駅は山間の寺院を中心とした小集落の駅だ。そして日和佐・由岐と港の町を経て、またまた海とはお別れ。山を越えて、阿波福井から小盆地に入る。止まる駅で乗客が増えてくる。車内は結構な混雑ぶりだった。それなのに列車は1両のワンマンだ。

桑野で8分の休憩。列車交換の意味もあるが、この列車にはトイレが付いていないので「トイレ休憩」もかねる。
阿南駅では前に2両の列車を連結するため、30分近い停車をするらしい。隣りのホームで乗客を降ろした列車が少し休んで、再び徳島方面へ動き出し、駅の先で停車して再び向きを変えて今乗っている線へと入ってきた。ホームで待ちかまえる、作業要員によって瞬くまに連結作業が信仰する。
東京では決して見ることの出来ない風景だ。改めてJR四国の列車運用の巧みさに驚かされる。

車内は立ち客で溢れるほどの混雑ぶりだったが、1両から一気に3両になったので一気にゆとりが出た。さっそく新たに接続した車両に移動。車内は一車両数名のガラガラで出発したが、停車する駅駅で乗客は増え、徳島に着くまでに3両となった車内も結構な乗車率となった。徳島駅に到着したのは16寺過ぎであり、日没が始まりかけていた。
改めて運転区がある大きな駅だ。高松駅や高知駅のように駅舎の再開発が行われていない為に、やや地味な印象を受けるが、駅前の発展ぶりはおそらく他を凌ぐのではないだろうか。
16:12徳島駅に到着予定。徳島駅では今回は乗る機会が無かったJR四国の新型気動車のキハ1500系が数多く留置されていた。だいぶ入替が進んでいるようだ。
1500系は環境対応型エンジンを採用した為に性能面では古い1000系と同じというが、デザインも含め内外観で今風に進化している。なによりも従来からのJR四国標準タイプの塗装から一新し、「自然」をイメージしたとされる緑色をベースにしたものを採用している為、かなり新鮮で良い印象だ。

 
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徳島駅の2番線ホームで岡山行きの特急「うずしお22号」(5022D)がやってくるの待つ。うずしおの入線まで40分近くあったが、帰省ラッシュが昨日からはじまっている事を知っていたので、高知駅の混雑を学習し、ひたすら列車の乗り場で待つことにした。案の定、私の後ろも含め、あっという間にホームに引かれた自由席乗り場の乗車ラインには長い列が出来はじめていた。

高徳線の特急「うずしお」の車両は新型車両に見えるが初日から何度も乗っているJR四国2000系特急列車の後期型だ。ホームに溢れていた大きな手荷物を抱えた乗客は、列車のドアが開くと共になだれ込んでいった。始発駅の徳島ですでに席は8割近く埋まっている。この「うづしお22号」は3両編成だが、このあと宇多津駅で高知からやって着る特急「南風22号」5両を連結する。

16:48「うずしお22号」(5022D)は徳島駅を発ち、今朝と同様に短い高架線を徳島線と別れて右にカーブすると一気に速度を上げていく。旧型のローカル列車に半日以上揺られ続けた体に、新型特急列車の乗り心地は普段乗る以上の快適さと安心感を覚える。そして今、この列車に乗ったことが四国最後の乗車である事を意味し、後ろ髪を引かれる思いで徳島そして夕焼けに照らされた吉野川を後にしていくのである。

この高徳線は名前の通り高松と徳島間74.5kmを結ぶ主要都市間連絡の重要路線で駅数は29駅ある。しかしながら電化はされいない所がJR四国の特殊性を物語っており、それでも軌道の高速化等が日々実施されている。その点に置いては、JR四国が渾身の思いで投入した新型の「制御振り子式気動車」(発展)2000系が最高速度130km/hを出すことができる路線でもあるのだ。

鳴門線との分岐駅である池谷駅を過ぎると、広い駅構内を持つ板野駅だ。この町は特に知るものが無いが、おそらく阿波ー讃岐国境を跨ぐ急峻な山岳地帯を控えた「峠麓」の駅であったのだろう。この駅を過ぎると急激に人家の無い山間部へと分け入って行く。山間の小集落の駅である阿波大宮駅。そしていよいよ大坂山トンネルを抜けると徳島県から香川県に入る。が実感は無い。それでも一瞬見える瀬戸内海がそれを悟らせた。

ここからは瀬戸内海に面した「由緒ある町々?」を巡っていく。
讃岐を代表する醤油の町として有名な引田は通過したものの、見た感じ2面3線の大きな駅だった。白鳥神社の門前町として発展し、現在日本でトップシェアの手袋製造の町、讃岐白鳥も通過。最初の停車駅三本松も2面3線の大きな駅。高徳線の丁度中間地点の駅らしい。駅名は蛭子神社の三本松にちなむとか。日は完全に落ちたが、遠くの空はまだ赤みが残っている。
志度駅は江戸時代の発明家でエレキテルで知られる平賀源内が生まれ、四国霊場86番札所志度寺の門前町として栄えた志度町の玄関口。説明は長く、特急の停車駅にしては相対ホームの普通の駅だった。

そして香川県の中心である高松駅に到着したのは17:43を過ぎていた。かつては国鉄連絡船で列車は瀬戸内海を渡っていて、この駅が四国の玄関口であったのだが、現在その役目は瀬戸大橋線に譲り、高松駅は新設と共に近代的な駅舎と欧州風の櫛形ホームを手にすることになる。その為列車はスイッチバック、逆向きに出発した。普通ならば、少なくとも本州と九州では座席の反転を促す放送があるはずである。しかし、慌てることなかれ、列車は次の停車駅である宇多津駅で高知からきた特急「南風22号」5両を後ろに連結して、再び向きを変えて岡山を目指すのだ。

 
 

高松駅から後ろ向き走り出した列車は、予讃線に乗り入れて五色台の南麓を周回しながら坂出市に入る。そして瀬戸大橋自動車道を潜ると宇多津駅に到着。ここで接続する予定の特急「南風22号」が少し遅れているとの事。四国最後の日程は、朝からダイヤの乱れが多かった。宇多津は中世に守護大名細川氏の城下町として発展し、江戸期は高松藩の重要な商港として発展した町で、今も伝統的な商家の町並みが残されている。

後ろからやってきた「南風22号」のドッキングは衝撃すら感じず、作業を終えて列車は宇多津駅を出発し、予讃線の三角線を通過して瀬戸大橋線に入る。やがて瀬戸大橋線は右手から迫ってきた瀬戸大橋自動車道の下段へと合流する。ちなみにこの「瀬戸大橋線」というのは愛称であり本当は「本四備讃線」という難解な名称なのだ。

そしていよいよ旅の最後を飾る大舞台の「瀬戸大橋」は塩飽諸島の5つの島に架かる6つの橋と、それらを結ぶ高架橋により構成されている。全長約13.1km。吊り橋・斜張橋・トラス橋の3種類からなる橋の総称で、鉄道道路併用橋としては世界最長の橋なのだそうだ。しかも下部の鉄道は新幹線・在来線合わせて4線を敷設できるようになっているが、ついに「四国新幹線」がこの橋を渡ることは無くなってしまった。そして現在は本来新幹線が走る予定であった、中央寄りに跨いで走っている。その理由は橋の重量バランスを保つため。

長い旅の最後が「この旅のクライマックス」とはなんたる偶然の演出か。夜でなにも見えないのが残念だが、橋梁の中を走るのは迫力物。遙か眼下に見える工場群や町の灯り、瀬戸内海の船や島の灯りがそのスケールを身に感じ冴させてくれる。

橋桁の中を走る轟音と橋梁のジョイント部分の段差音、橋脚部分で音が違い、真っ暗で何も見えないものの、今現在いくつ目の橋を渡っているかは、数えることができる。窓を見下ろすと時折ライトアップされた橋脚部分が線路の隙間からわずかに確認できる。そして下津井の港町の灯りが見えたら、鋼鉄の橋桁を走る騒音から解放されコンクリート高架へとシフトすると、ついに本州へと帰ってきた事を実感した。

終点岡山まであと2駅だが、JR四国は次の停車駅である児島駅まで。ここで運転手と車掌がJR西日本の職員に入れ替わるのだ。児島駅は高架の近代的な駅だが、駅周辺にはなにもなく漆黒が広がる。と行っても時刻はまだ18時台なのだが。
この児島駅から先の岡山まではJR西日本のエリアなので、当然「四国フリーキップ」は使えない。よって児島ー岡山間は別料金となり特急料金も必要となるため、後続の快速に乗り換える事にした。四国への玄関口は実質的に岡山なのだから、当然「四国フリーキップ」に岡山までを加えるげきであると思う。

この駅で後続の瀬戸大橋線の快速「マリンライナー56号」(3156M)を待つ乗客はいない。列車が車で30分近く時間はあった。これも最後の列車接続の待ち時間だ。やがてやってきた快速「マリンライナー号」はJR西日本のレギュラー近郊列車の223系に、JR四国製2階建て新型先頭車両の5000系が並結されていた。
今回の旅で散々地味な印象を植え付けられたJR四国だったが、最後の最後で同社の未来を予感させる列車と出会える事ができた。

列車は岡山駅の4番線ホームに到着。今回の旅は岡山から始まり岡山で終わる、中国、九州、四国を実にぐるりと1周して戻ってきたのだ。岡山駅を後にして、高速夜行バスの乗り場を目指す。そして明日の早朝には東京の新宿に着している。

最後の最後で時間軸が大きく代わり、9日間にも及ぶ長い旅の記憶が定着する前に、バスの中で眠りに就いたのだった。

 
 
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