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青春18キップで廻る          
  北近畿・餘部鉄橋の旅  

 
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 朝の5時台は夏と言えどもはまだ暗い。駅まで歩いている内に遠くの山々の輪郭が浮かび上がってきた。それから、薄明るくなるまでに時間は掛からなかった。

 5:38やってきたのは塩山発の115系3両編成(321M)。昨日と同じまたスカ色。丁度上り線を明るい信州カラーの115系が走り去っていった。石和温泉からわずか6駅で山梨の県都・甲府駅に到着。甲府城の石垣が駅にせまる。乗っていた列車は韮崎までいくが、韮崎で後から甲府発の列車に乗り換える事になる。ならば始発の甲府駅で乗り換えた方が着座率や選択の自由度は高い。まあ、こんな時間はガラガラだろうけど。向かいのホームで待っていたのは同じく115系3両編成だが、色は信州カラーだった。が、これは後発の列車で乗り換える予定の列車では無かった。しばらくして(421M)が入線してきた。またまたスカ色である。今回は信州色とは無縁そうだ。
 (421M)は6:06に甲府駅を出発。6時台とは言えども、この季節はだいぶ明るい。中央本線は甲府から先、再び信州を目指して山岳路線となっていく。竜王駅をすぎると、いよいよモーター音が上がっていく。
 韮崎のあたりでいつのまにか眠りにつき、目が覚めると目の前に諏訪湖が広がった。今日の列車は辰野を迂回せず、塩領トンネルを抜け、みどり湖経由で塩尻駅に7:38に到着した。もう昼間なみに太陽が照っているが、普段ならようやく布団から起きる時間だ。

  この塩尻は中央本線の接点で、JR東日本とJR東海に乗り換える。運行形態がまるで異なり、この塩尻から名古屋までを中央西線という。海を持たない内陸の信州は、人の命に欠かせない「塩」を南は三河や遠江、北は越後から運んだ。三州街道や糸魚川街道は「塩の道」と呼ばれ、それぞれの終着点が「塩の道の尻」つまり、この塩尻であった。現在も長野、北陸方面や名古屋方面を連絡する要衝であるものの、実質的には通過駅の様相だ。
 この塩尻駅で中央西線を待つ。貨物列車がホームに入線し、しばらく停車後再び走り去っていく。重力級の迫力を間近で見た。機関車は旧式だったが、リニューアルされていた。積荷は石油燃料だった。現在は塩に変わって石油が生命線である事を象徴しているようであった。

 貨物列車が走り去っていった後、いよいよ松本発の中央西線が入線してきた。JR東海の新型車両313系である。ステンレス車体に東海カラーのオレンジを纏い、顔は白く化粧されているのは、JR東海、全路線共通のスタイルのようである。車内は転換クロスシートで、リクライニングはしないものの、それに近い人間工学に基づいた設計で
あり、昨夜から乗り継いできた旧型列車のボックス席とは二味以上違う。さらに座り心地もさることながら、車両自体の乗り心地がすこぶる良い。 列車は3両編成ながらワンマン運転だ。無人駅では路線バス同様に最前列しか降りる事はできない。運転手が改札を行うのだ。慣れない人は気をつけなければ、目的駅で降り損ねる可能性がある。
 以前から興味のあった、中仙道・木曽路の宿場町と併走する中央西線に、ついに乗ることが出来て感無量であ
り、興奮で睡魔は吹き飛んでしまった。列車は車で何度も行き来した国道19号線を横目に、木曽路の「山の中」へとぐんぐん入っていく。線形が良いので快適さは車より遙かに上を行く。まあ、車は車で楽しいのだけど。
 この中央西線、実はというか、やはりというか松本・塩尻から名古屋まで特急列車を除いて直通は無い。利用客層と生活圏に合わせ、大きく3つに区切られているようだ。木曽路は観光シーズンを除いて超ローカル線の松本ー中津川間。そして中津川ー多治見の準近郊区間。そして名古屋通勤区間の多治見ー名古屋の具合だ。
 木曽路最大の宿場町であった奈良井以外は、あまり宿場町の姿を見ることは無く、木曽川の自然とダムや発電所を車窓に見ながら、10:00に中津川駅へ到着した。中津川は岐阜県で、中仙道はここから美濃路となる。落合宿と共に、木曽路を控えた宿場町であり、商業都市でもあった町で、この中津川から先の列車はワンマン運転では無い。中津川で待っていたのはJR東海312系4両と211系4両が連結した計8両編成。3両から8両になったもの
の、車内は結構な乗車率である。時間が時間であるし、快速である事も理由かもしれないが、一気に生活人口が増えた印象だ。
 通常ならば多治見で再び乗り換える事になるのだが、快速なので名古屋へ直通。中津川を10:09に発ち、名古屋には11:27到着予定であったものの、若干早い11:23に到着した。



 名古屋からは東海道線に乗り換えとなる。待っているのは「新快速」。といっても終点の米原までは行かず、大垣でまた乗換が必要で、やや納得がいかない感じがある。新快速は11:45にやってきた。312系5009番台6両編成(5317F)。列車番号語尾のFは東海通勤圏独自の記号らしい。大都市圏らしい混雑ぶりで、着座どころでは無く、かろうじて最前部の窓際に立つことできた。JR東海の車両は窓が大きく、見晴らしが良いのが好印象だ。運転手は若い女性だった。大きな声と指差しで信号・標識確認をしていた。

 12:20に大垣駅到着。接続列車はホームの対面では無く、連絡橋で別のホームへ移動しなくてはならない。乗換えダッシュをするが、どうやら乗り継ぎ列車の入線を待つようで、「やる気があるんか」とすら思え、やや怒りが。約20分待つことやってきたのは、旧特急車両の117系4両。なつかしいと共に、こうも大垣の前後で運行形態が違うのか?という事を見せつけられた。117系はそれほど古い設計の車両ではないが、かなり哀愁が漂いローカル色が醸しでている。

 名古屋から先の東海道線は、実は「東海道」とはルートを変え、「中仙道」に沿ったルートを走る。明治期当時の建設技術では、鈴鹿山脈越えは難しく、関ヶ原経由の比較的ゆるやかな地形が選ばれた為だ。それでも垂井付近では勾配を稼ぐために上下線で別ルートを走るのだ。大垣から先は、中仙道の宿場町がそのまま町場化している為に、それらを結ぶように走り、ようやく関西本線・北陸本線の要衝で新幹線とも接続する米原駅に到着した。

 米原からはJR西日本圏となる。車両もまた大きく変わる。国鉄分割後のJR3社でこうも新造車両が異なるとは思っても見なかった。姫路からきた新快速はJR西日本223系10両(3452M)で、車両形式の頭にJR各社の社名を入れているのはその為で、JR東日本だけはアルファベットの「E」が形式番号に入っているので、省略している。
それにしても東京以来の10両編成で、さすが西の雄といった感じ。この新快速は、はるばる姫路からやって来たのは良いが、敦賀までは行かず長浜止まりである。む〜。

 長浜に着くと、ベストなタイミングで向かい側のホームから接続する列車が待っていたが、時刻表を見逃していた為、それを検索しているうちに、出て行ってしまった。
 せっかくなので、ここで昼食を取ることにする。やはり、列車を乗り続けるだけでなく、改札を出て町を歩く旅情も必要だ。長浜は豊臣秀吉の築いた長浜城の城下町であり、北国街道の宿場町として発展した町であり、往時の面影を残す町並みが多く残されている。したがって、実は何度も訪れているのだ。古い町並みを再生して、活性化に成功した町である為に、観光客も多く、あえてその雑多の中に埋没する気も起きず、足は古い町並みとは逆の方角へと向かった。まるで地元に帰ったかのように知った町だ(駅周辺だけだけど)。
 向かう先は、前々からの念願であった「長浜ビール館」で地ビールとソーセージに舌を打つ事だ。いつも車で訪れていた為に、見るだけで終わっていたブルワリー&レストランである。

 かるく昼食をとるつもりが、地ビールをいろいろ飲み比べてみたくなり、列車を1本遅らせるつもりが、2本遅らせる事となり、すっかり良い気分で駅へと向かった。
 ホームでまっていたのは、今日この先乗り継ぐ、小浜線で初乗りと思っていた125系2両(8147M)だった。
JR西日本の地方線用新型車両で、1両でも運行できる仕様だ。13:23の出発だが、なんとこの列車も敦賀まで行かず、2つ手前の近江塩津止まりという中途半端さ。訳がわからん。途中北国街道の要衝であり、私の好きな酒蔵がある木之本を通過。近江塩津は敦賀で取れた海産物や日本海運の物資、大陸からの文化を京へ運ぶ中継地として栄えた町だった。山を越えた先の疋田は、この塩津ルートと海津ルートの分岐点で、現在も国道の追分である。

 近江塩津で待つこと4分。すぐにやってきたのは4両編成の223系新快速(3148)。実は長浜でもう1本遅らせていれば、ゆっくりできた上に、この乗換は無かったのだ。まあ、鉄道の素人なので自分にご愛敬。15:03に近江塩津を発ち出発し、新疋田駅、15:16に北陸の玄関口の敦賀駅に着いた。
 ちなみに、近江塩津や疋田のいずれも古い町並みが残り、何度も訪れている。



 さて、小浜線への乗り継ぎは34分ほどある。敦賀もまた何度か訪れているので、駅周辺に見るべきものが無いのは知っていたから、駅構内と駅前をぶらぶらした。

 小浜線は変わった路線でもある。特急も走らないローカル線ながら、2003年に全線電化され、新型車両が投入された。これには非公式ながら電力会社が関与している。若狭湾は原発銀座と揶揄されるがゆえに、鉄道がディーゼル車なのはいかに?という事なのか、電力会社による「匿名の寄付」と、地元自治体の積立した資金を利用し、全額地元負担で電化されたらしい。ただし初期費用を抑えるため、変電所の数を通常よりも少なくした事から、加速度や最高速度が制限され、125系の本領が発揮されない状況とか。路線距離84.3km、駅数は24駅ある。北陸本線と山陰本線のバイパス線として計画されたが、今はそれらを直通する列車は無い。

 15:50発の小浜線は先ほど乗ったJR西日本の新型125系2両編成(938M)。雨が降ってきた。若狭の風景に美しい潤いをあたえる。水田は青味を増し、山々には山霧が立ち上がる。列車の動きがどうもおかしい。駅で無い場所で止まったり、徐行したり、加速したりの繰り返し。まあ、半分酩酊状態なのであまり感心は無い。
 車内放送によるとゲリラ豪雨と落雷の影響で、1時間近い遅れが出ているとの事。もはや、今日中に城崎温泉に辿り着くことは不可能となった。危機意識はあるものの、まだ頭は半分寝ている。
 小浜線は回復運転を行ったのか、35分遅れの18:19に東舞鶴駅に着いた。しかし、せっかくの回復運転も接続する列車の臨時運行が無い状態では、まるで意味が無かった。この先、数珠玉式に接続は悪い。
 とりあえず、かろうじて本日中に到着できる、豊岡の旅館に電話するがあえなく撃沈。行けるところまで行って考えるしかない。最悪野宿も覚悟した。

 18:48発の舞鶴線114系2両編成(350M)に乗って綾部へ。あたりは完全に真っ暗。舞鶴線もまた寂しい路線である。路線距離はわずが26.4kmで駅数は6駅しかない。もともと舞鶴の軍港と山陰本線を結ぶ支線として建設され、戦中、戦後は出征者や引揚者の輸送で賑わったそうだが、それも過去の話である。

 江戸時代、伊勢・志摩を支配した水軍から没落した九鬼家2万石の城下町(陣屋町)で、その後繊維産業の町として発展し、現在は「グンゼ産業」の城下町となった綾部駅に19:18到着。ここで、乗り継ぐ山陰本線もまた、ダイヤの乱れで遅れていた。もうどうにもでもなれ、である。
 まあ、約10分ほど遅れて221系(1145M)がやってきた。そして京都北部有数の城下町である福知山に辿り着いた。駅周辺にあまりホテルらしきものは見あたらなかったが、少し歩くと小さなビジネスホテルを発見、飛び込みで宿泊することができた。



 
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